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べし。「いでそのきんのこと彈き給へ。橫笛は月にはいとをかしきものぞかし。いづらくそたち琴とりて參れ」といふにそれなめりと推し量りに聞けど、いかなる所にかゝる人いかでこもり居たらむ。定めなき世ぞこれにつけて哀なる。ばんしきでうをいとをかしく吹きて「いづらさらば」とのたまふ。むすめの尼君これもよきほどのすきものにて「昔聞き侍りしよりもこよなく覺え侍るは山風をのみ聞きなれ侍りにける耳からにや」とて「いでやこれは僻事になりて侍らむ」といひながらひく。今やうはをさをさなべての人の今は好まずなり行くものなればなかなか珍しく哀に聞ゆ。松風もいとよくもてはやす。吹き合せたる笛の音に月もかよひてすめる心地すればいよいよめでられて宵惑もせず起き居たり。「おうなは昔はあづまごとをこそはこともなく彈き侍りしかど、今の世には變りにたるにやあらむ、この僧都の聞きにくし念佛より外のあだわざなせそとはしたなめられしかば、何かはとて彈き侍らぬなり。さるはいとよくなることも侍り」といひつゞけていと彈かまほしと思ひたればいと忍びやかにうち笑ひて「いとあやしき事をせいし聞え給ひける僧都かな。極樂といふなる所には菩薩なども皆かゝる事をして天人なども舞ひ遊ぶこそたふとかなれ。行ひまぎれ罪得べきことかは。今夜聞き侍らばや」とすかせばいとよしとおもひて「いでとのもりのくそ、あづまとりて」といふにもしはぶきは絕えず。人々は見苦しと思へど僧都をさへうらめしげに憂へていひ聞かすればいとほしくてまかせたり。取りよせて只今の笛の音をも尋ねず唯おのが心をやりてあづまの調べをつきさはやかにしらふ。皆こと物は聲やめつるをこれをのみ