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し」などひきうごかしつべくいふ。さすがにかゝる古代の心どもにはありつかず今めきつゝ腰折歌このましげにわかやぐ氣色どもはいとうしろめたう覺ゆ。限りなく憂き身なりけりと見はてゝし命さへあさましう長くていかなるさまにさすらふべきならむ。ひたぶるになきものと人に見聞き捨てられてもやみなばやと思ひふし給へるに、中將は大方物思はしきことのあるにや、いといたううち歎きつゝ忍びやかに笛を吹きならして「鹿の鳴く音に」などひとりごつけはひまことに心地なくはあるまじ。「過ぎにしかたの思ひ出でらるゝにもなかなか心づくしに今はじめて哀とおぼすべき人はたかたげなれば見えぬ山路にもえ思ひなすまじうなむ」と怨めしげにて出でなむとするに、尼君「などあたら夜を御覽じさしつる」とてゐざり出でたまへり。「なにかをちなる里も試み侍りぬれば」などいひすさみていたうすきがましからむもさすがに便なし。いとほのかに見えしさまの目とまりしばかりにつれづれなる心なぐさめに思ひ出づるに、あまりもてはなれ奧深げなるけはひも所のさまにはあはずすさまじと思へば歸りなむとするを笛の音さへあかず、いとゞおぼえて、

 「ふかき夜の月をあはれと見ぬ人や山の端ちかき宿にとまらぬと、なまかたはなることをかくなむ聞え給ふ」といふに心ときめきして、

 「山のはに入るまで月をながめみむねやのいたまもしるしありやと」などいふにこの大尼君笛の音をほのかに聞きつけたりければさすがにめでゝ出で來たり。此所彼所うちしはぶき淺ましきわなゝき聲にてなかなか昔の事などもかけていはず。誰とも思ひわかぬなる