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覺え侍れば、今は知るべき世にあらむとも思ひ出でず、ひたみちにこそむつまじく思ひ聞ゆれ」とのたまふさまもげに何心なくうつくしくうち笑みてぞまもり居給へる。中將は山におはし着きて、僧都もめづらしがりて世の中の物語し給ふ。その夜はとまりて聲たふとき人々に經などよませて夜一夜あそび給ふ。禪師の君こまかなる物語などするついでに「小野に立ち寄りて物哀にもありしかな。世を拾てたれど猶さばかりの心ばせある人かたうこそ」などのたまふついでに「風の吹きあげたりつるひまより髮いと長くをかしげなる人こそ見えつれ。あらはなりとや思ひつらむ、立ちてあなたに入りつるうしろでなべての人とは見えざりつ。さやうの所によき女は置きたるまじきものにこそあめれ。明暮見るものは法師なり。おのづからめなれて覺ゆらむ。不便なることぞかし」とのたまふ。禪師の君「この春初瀨に詣でゝ怪しく見出でたる人となむ聞き侍りし」とて見ぬことなればこまかにはいはず。「哀なりけることかな、いかなる人にかあらむ。世の中を憂しとてぞさる所には隱れ居けむかし。昔物語の心地もするかな」とのたまふ。またの日歸り給ふにも「過ぎがたくなむ」とておはしたり。さるべき心づかひしたりければ昔思ひ出でたる御まかなひの少將の尼なども袖口さまことなれどもをかし。いとゞいやめに尼はものし給ふ。物語のついでに「忍びたるさまに物し給ふらむは誰にか」と問ひ給ふ。わづらはしけれどほのかにも見つけ給ひてけるをかくし顏ならむもあやしとて、「忘れ侘び侍りていとゞ罪深うのみ覺え侍りつるなぐさめにこの月比見給ふる人になむ。いかなるにか、いと物思しげきさまにて世にありと人に知られむ事