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いみじと物を思ひなげきて皆人の寢たりしに妻戶を放ちて出でたりしに風烈しう川波も荒う聞えしを一人物恐しかりしかばきしかたゆくさきも覺えずすのこの端に足をさしおろしながら行くべき方も惑はれて、歸り入らむも中空にて心强くこの世にうせなむと思ひたちしををこがましうて人に見つけられむよりは鬼も何もくひて失ひてよといひつゝつくづくと居たりしを、いと淸げなる男のよりきて、いざたまへおのがもとへといひて抱く心ちのせしを、宮と聞えし人のし給ふと覺えしほどより心惑ひにけるなめり、知らぬ所にすゑおきてこの男は消え失せぬと見しを、遂にかくほ意のごともせずなりぬると思ひつゝいみじう泣くと思ひしほどに、その後の事は絕えていかにもいかにもおぼえず、人のいふを聞けば多くの日比も經にけり、いかに憂きさまを知らぬ人にあつかはれ見えつらむとはづかしう遂にかくて生きかへりぬるかと思ふも口惜しければいみじおぼえてなかなかしづみ給へる日比はうつしごゝろもなきさまにて物いさゝか參ることもありつるを露ばかりの湯をだにまゐらず。「いかなればかくたのもしげなくのみはおはするぞ。うちはへぬるみなどし給へることはさめ給ひてさはやかに見え給へば嬉しう思ひ聞ゆるを」となくなくたゆむをりなくそひ居てあつかひ聞え給ふ。ある人々もあたらしき御さまかたちを見れば心を盡してぞ惜みまもりける。心には猶いかで死なむとぞ思ひわたり給へど、さばかりにていきとまりたる人の命なればいとしふねくてやうやう頭もたげ給へば物まゐりなどし給ふにぞなかなかおも瘠せもて行きいつしかと嬉しう思ひ聞ゆるに「尼になし給ひてよ。さてのみなむ生くやうも