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おぼし弟子どもゝいひて人に聞かせじとかくす。僧都「いであなかまだいとこたち、われ無慚の法師にて忌むことの中に破る戒は多からめど女のすぢにつけてまだそしり取らず過つことなし。齡六十にあまりて今更に人のもどきおはむはさるべきにこそはあらめ」とのたまへば、「善からぬ人のびんなくいひなし侍る時には佛法のきずとなり侍ることなり」と心よからず思ひていふ。「このずほふの程にしるし見えずは」といみじき事どもを誓ひ給ひて夜一夜加持し給へる曉に人にかりうつして「何やうの物かく人を惑はしたるぞ」と、有樣ばかりいはせまほしうて、弟子の阿闍梨とりどりに加持し給ふ。月比はいさゝかも顯れざりつるものゝけ調ぜられて「おのれはこゝまでまうで來てかく調ぜられ奉るべき身にもあらず。昔は行ひせし法師のいさゝかなる世に恨を留めて漂ひありきしほどに、よき女のあまた住み給ひし所にすみつきてかたへは失ひてしに、この人は心と世を恨み給ひて我いかで死なむといふことをよるひるのたまひしにたよりを得ていと暗き夜一人ものし給ひしをとりてしなり。されど觀音とざまかうざまにはぐゝみ給ひければこの僧都にまけ奉りぬ。今はまかりなむ」とのゝしる。「かくいふは何ぞ」と問へば、つきたる人物はかなきけにや、はかばかしくもいはず、さうじみの心地はさはやかに聊物覺えて見まはしたれば、一人見し人の顏はなくて皆老法師ゆがみ衰へたるものゝみ多かれば、知らぬ國に來にける心ちしていとかなし。ありし世の事思ひ出づれど、住みけむ所誰といひし人とだにたしかにはかばかしうも覺えず。唯、我はかぎりとて身を投げし人ぞかし、いづくに來にけるにかとせめて思ひ出づればいと