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させ給はむ。見苦しきわざかな」といひあへり。「あなかま人に聞かすな。煩しきこともぞある」など口がためつゝ尼君は親の煩ひ給ふよりもこの人を生けはてゝ見まほしう惜みてうちつけにそひ居たり。知らぬ人なれど、みめのこよなうをかしければいたづらになさじと見るかぎりあつかひさわぎけり。さすがに時々目見あげなどしつゝ淚の盡せず流るゝを「あな心うや。いみじう悲しと思ふ人のかはりに佛の導き給へると思ひ聞ゆるを、かひなくなり給はゞなかなかなる事をや思はむ。さるべき契にてこそかく見奉るらめ。猶いさゝか物のたまへ」といひつゞくれど辛うじて「いき出でたりとも怪しき不用の人なり。人に見せでよるこの河に落し入れ給ひてよ」と息のしたにいふ。「まれまれ物のたまふを嬉しと思ふに、あないみじや、いかなればかくのたまふぞ。いかにしてさる所にはおはしつるぞ」と問へども物もいはずなりぬ。身にもし疵などやあらむとて見れどこゝはと見ゆる所なく美しければあさましく悲しく誠に人の心惑はさむとて出で來たる假のものにやと疑ふ。二日ばかり籠り居て二人の人を祈り加持する聲絕えず、怪しきことを思ひさわぐ。そのわたりの下すなどの僧都に仕うまつりける、かくておはしますなりとて訪ひ出で來るも物語などしていふを聞けば「故八宮の御むすめ右大將殿の通ひ給ひしが殊に惱み給ふこともなくて俄にかくれ給へりとてさわぎ侍る。その御葬送の雜事ども仕うまつり侍るとて昨日は得參り侍らざりし」といふ。さやうの人のたましひを鬼のとりもて來たるにやと思ふにも、かつ見るみるあるものとも覺えず危く恐しとおぼす。人々「よべ見やられし火はしかことごとしき氣色も見えざり