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しうおぼさるゝこといと深し。年比哀と思ひそめたりし方にて荒き山路を行きかへりしに今は又心うくて、この里の名をだにえきくまじき心地し給ふ。宮の上ののたまひはじめし人がたとつけたりしさへゆゝしう唯我があやまちに失ひつる人なりと思ひもて行くには、母の猶かろびたる程にて後のうしろみもいとあやしくことそぎてしなしけるなめりと、心ゆかず思ひつるを委しく聞き給ふになむ、いかに思ふらむ、さばかりの人の子にてはいとめでたかりし人を忍びたることは必ずしもえ知らで、我がゆかりにいかなる事のありけるならむとぞ思ふならむかしなど萬にいとほしくおぼす。けがらひといふことはあるまじけれど御供の人めもあればのぼり給はで、御車のしぢを召して妻戶の前にぞ居給ひけるも見苦しけれどいとしげき木の下に苔をおましにて、とばかり居給へり。今はこゝを來て見むことも心うかるべしとのみ見めぐらし給ひて、

 「われもまたうきふる里をあれはてばたれやどり木のかげをしのばむ」。阿闍梨今はりしなりけり。めしてこのほふじのことおきてさせたまふ。念佛の僧のかずそひなどせさせ給ふ。罪いと深くなるわざとおぼせばかろむべきことをぞすべき。七日七日に念佛供養すべきよしなどこまかにのたまひていと暗うなりぬるに歸り給ふもあらましかば今夜歸らむやはとのみなむ尼君にせうそこさせ給へれど「いともいともゆゝしき身をのみ思ひ給へしづみていとゞ物を覺え給へられずほれ侍りてなむうつぶしふして侍る」と聞えて出で來ねば强ひても立ちより給はず、道すがら疾く迎へとり給はずなりにけることくやしう、水の音の