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ふ人もかくのゝしる乳母なども初めより知りそめたりし方に渡り給はむとなむ急ぎ立ちてこの御事をば人知れぬさまにのみ辱く哀と思ひ聞えさせ給へりしに御心みだれけるなるべし。あさましうて心と身をなくなし給へるやうなれば、かく心のまどひにひがひがしく言ひ續けらるゝなめり」とさすがにまほならずほのめかす。心得がたく思ひて「さらばのどかに參らむ。立ちながら侍るもいとことそぎたるやうなり。今御みづからもおはしましなむ」といへば、「あなかたじけな。今さら人の知り聞えさせむもなき御ためはなかなかめでたき御宿世見ゆべき事なれど忍び給ひしことなればまたもらさせ給はでやませ給はむなむ御志に侍るべき。こゝにはかく世づかずうせ給へるよしを人に聞かせじ」とよろづにまぎらはすを、しねんに事どもの氣色もこそ見ゆれと思へばとかくそゝのかしやりつ。雨のいみじかりつるまぎれに母君の渡り給へり。更にいはむ方もなく目の前になくなしたらむ悲しさはいみじくとも世の常にてたぐひあることなり。これはいかにしつる事ぞと惑ふ。かゝる事どものまぎれありていみじう物思ひ給ふらむとも知らねば身をなげ給へらむとも思ひもよらず。鬼や食ひつらむ、狐めくものや取りもていぬらむ、昔物語の怪しき物の事のたとひにか、さやうなる事もいふなりしと思ひいづ。さてはかのおそろしと思ひ聞ゆるあたりに心など惡しき御乳母やうのものやかう迎へ給へしと聞きて、めざましがりてたばかりたる人もやあらむとげすなどを疑ひ「今まゐりの心知らぬやある」と問へば「いと世ばなれたりとて、ありならはぬ人はこゝにてはかなき事もえせず、今疾く參らむといひつゝなむ、みなその急ぐ