Page:Kokubun taikan 02.pdf/574

提供:Wikisource
このページは校正済みです

にも入らず。よるとなれば人に見つけられず出でゝ行くべき方を思ひまうけつゝ、寢られぬまゝに心地も惡しく皆たがひにたり。明けたてば、川の方を見やりつゝ羊のあゆみよりも程なき心ちす。宮はいみじき事どもをのたまへり、今さらに人や見むと思へば、この御返事をだに思ふまゝにも書かず。

 「からをだにうき世の中にとゞめずばいづこをはかと君もうらみむ」とのみ書きて出しつ。かの殿にも、いまはの氣色見せ奉らまほしけれど、ところどころに書きおきて、離れぬ御中なれば遂に聞き合せ給はむ事いと憂かるべし、すべていかになりけむと、誰にも覺束なくて止みなむと思ひ返す。京より母の御文持て來たり。「寢ぬる夜の夢に、いとさわがしくて見え給ひつれば、ずきやう所々にせさせなどし侍る。やがてその夢の後、寢られざりつるけにや、只今晝寢して侍る夢に、人のいむといふことなむ見え給ひつれば驚きながら奉る。能くつゝしませ給へ。人離れたる御住ひにて、時々立ちよらせ給ふ人の御ゆかりも、いと恐しく、惱しげに物せさせ給ふ、折しも夢のかゝるを、よろづになむ思ひ給ふる。參りこまほしきを、少將の方の猶いと心もとなげに、ものゝけだちて惱み侍れば片時も立ち去ることゝ、いみじくいはれ侍りてなむ。その近き寺にも御ず經せさせ給へ」とて、その料のもの、文など書きそへて持て來たり。限と思ふ命の程を知らで、かくいひつゞけ給へるもいと悲しと思ふ。寺へ人やりたる程、返事かく。いはまほしきこと多かれど、つゝましくてたゞ、

 「のちにまたあひ見むことを思はなむこの世のゆめに心まどはで」。ずきやうの鐘の風に