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に、このものとがめする犬の聲絕えず、人々追ひさけなどするに、弓ひきならし怪しきをのこどもの聲して、「火あやふし」などいふも、いと心あわたゞしければ、かへり給ふほど、いへばさらなり。

 「いづくか身をば捨てむと白雲のかゝらぬ山もなくなくぞゆく」。さらばやとてこの人を返し給ふ。御氣色なまめかしくあはれに、夜深き露にしめりたる御かのかうばしさなど、たとへむかたなし。泣く泣くぞ歸りきたる。右近はいひきりつるよしいひ居たるに、君はいよいよ思ひ亂るゝこと多くて臥し給へるに、入り來て、ありつるさま語るに、いらへもせねど枕のやうやううきぬるをかつはいかに見るらむとつゝまし。つとめても怪しからむまみを思へば、むごに臥したり。物はかなげに帶うちかけなどして經讀む。親にさきだちなむ罪失ひ給へとのみ思ふ。ありし繪を取り出でゝ見て、書き給ひし手つき、顏のにほひなどのむかひ聞えたらむやうに覺ゆれば、よべ一言をだに聞えずなりにしは、猶今ひとへまさりていみじと思ふ。かの心のどかなるさまにて見むと、行く末遠かるべき事をのたまひわたる人も、いかゞおぼさむといとほしう、憂きさまにいひなす人もあらむこそ、思ひやり恥しけれど、心淺くけしからず人わらへならむを聞かれ奉らむよりはと思ひつゞけて、

 「歎きわび身をば捨つともなきかげにうき名流さむことをこそ思へ」。親もいと戀しく、例はことに思ひ出でぬはらからのみにくやかなるもこひし。宮のうへを思ひ出で聞ゆるにも、すべて今一たびゆかしき人多かり。人は皆おのおのものそめ急ぎ、何やかやといへど耳