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子產む所に出でたりける、歸り來にければ心やすくも得見ず、かくあやしき住ひを唯かの殿のもてなし給はむさまをゆかしく待つことにて、母君も思ひ慰めたるに、忍びたるさまながらも近く渡してむことをおぼしなりにければ、いとめやすく嬉しかるべきことに思ひて、やうやう人もとめ、わらはのめやすきなど迎へておこせ給ふ。我が心にもそれこそはあるべきことに初より待ち渡れとは思ひながら、あながちなる人の御事を思ひ出づるに、恨み給ひしさま、のたまひし事ども面かげにつとそひて、いさゝかまどろめば夢に見え給ひつゝ、いとうたてあるまでおぼゆ。雨降りやまで、日頃多くなるころ、いとゞ山路おぼし絕えて、わりなくおぼされければ、おやのかうこは所せきものにこそとおぼすもかたじけなし。盡きせぬ事ども書き給ひて、

 「ながめやるそなたの雲も見えぬまで空さへくるゝころのわびしさ」。筆にまかせて書き亂り給へるしも見どころあり、をかしげなり。殊にいと重くなどはあらぬ若き心ちにいとかゝる心を思ひもまさりぬべけれど、初より契り給ひしさまも、さすがにかれは猶いと物深う、人がらのめでたきなども世の中を知りにしはじめなればにや、かゝる憂き事聞きつけて思ひ疎み給ひなむ世には、いかでかあらむ、いつしかと思ひ惑ふ。おやにも思はずに心づきなしとこそはもてわづらはれめ。かく心いられし給ふ人はた、あだなる御心の本じやうとのみ聞きしかば、かゝる程こそあらめ、またかうながらも京にかくしすゑ給ひ、ながらへてもおぼしかずまへむにつけては、かのうへおぼさむこと、よろづかくれなき世なりければ怪し