Page:Kokubun taikan 02.pdf/341

提供:Wikisource
このページは校正済みです

 「淚のみきりふたがれる山里はまがきに鹿ぞもろごゑになく」。黑き紙に夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふ所もなく筆に任せておし包みて出し給ひつ。御使は、木幡山のほども雨もよにいと恐しげなれど、さやうの物おぢすまじきをえり出で給ひけむ、むつかしげなるさゝのくまをこまひきとゞむる程もなくうちはやめて片時に參りつきぬ。おまへに召しても、いたくぬれて參りたれば祿たまふ。さきざき御覽ぜしにはあらぬ手の、今少しおとなびまさりてよしづきたる書きざまなどを、いづれかいづれならむとうちも置かず御覽じつゝ、とみにもおほとのごもらねば、「待つとて起きおはしまし、又御覽ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならむ」と、御前なる人々さゝめききこえて、にくみ聞ゆ。ねぶたければなめり。まだ朝霧深きあしたにいそぎ起きて奉り給ふ、

 「朝霧に友まどはせる鹿の音を大かたにやはあはれとも聞く。もろごゑは劣るまじくこそ」とあれど、あまりなさけだゝむもうるさし。ひと所の御蔭にかくろへたるをたのみ所にてこそ何事も心やすくて過しつれ、心より外にながらへて、思はずなることのまぎれつゆにてもあらば、うしろめたげにのみおぼしおくめりし、なき御たまにさへきづやつけ奉らむと、なべていとつゝましう恐しうて聞え給はず。この宮などをばかろらかにおしなべてのさまにも思ひ聞え給はず。なげの走りかい給へる御筆づかひ、言の葉もをかしきさまになまめき給へる御けはひをあまたは見知り給はねど、これこそはめでたきなめれと見給ひながら、そのゆゑゆゑしくなさけある方に、ことをまぜ聞えむもつきなき身の有樣どもなれば、何かたゞ