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でやよしなくぞ侍る。しばし世の中に心とゞめじと思ひ給へるやうある身にてなほざりごともつゝましう侍るを、心ながらかなはぬ心つきそめなばおほきに思ひにたがふべきことなむ侍るべき」と聞え給へば「いであなことごとし。例のおどろおどろしきひじりことば見はてゝしがな」とて笑ひ給ふ。心のうちにはかのふる人のほのめかしゝすぢなどのいとゞうち驚かされて物哀なるにをかしと見ることもめやすしと聞くあたりも何ばかり心にもとまらざりけり。十月になりて五六日のほどに宇治へまうで給ふ。「あじろをこそこの頃は御覽ぜめ」と聞ゆる人々あれど「何かはそのひをむしにあらそふ心にてあじろにもよらむ」とそぎ捨て給ひて、かろらかに網代車にてかとりの直衣指貫ぬはせて殊さらび着給へり。宮待ち喜び給ひて所につけたる御あるじなどをかしうしなし給ふ。暮れぬれば大となぶら近くてさきざき見さし給へる文どもの深きなど、阿闍梨もさうじおろして義などいはせ給ふ。うちもまどろまず。河風のいとあらましきに木の葉の散りかふおと水のひゞきなど哀もすぎて物恐しく心ぼそき所のさまなり。明けがた近くなりぬらむと思ふ程に、ありししのゝめ思ひ出でられて、琴の音の哀なることのついでつくり出でゝ「さきのたび霧にまどはされ侍りし曙にいと珍しきものゝ音ひと聲うけたまはりしのこりなむ、なかなかにいといぶかしう飽かず思ひ給へらるゝ」など聞え給ふ。「色をも香をも思ひ捨てゝし後昔聞きしことも皆忘れてなむ」とのたまへど、人召してきんとりよせて「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなむ思ひ出でらるべかりける」とて琵琶めしてまらうどにそゝのかし給ふ。と