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の少將は見給ふらむかしと思ひやりてしづ心なし。にほひもなく見苦しき綿花もかざす人がらに見わかれてさまも聲もいとをかしくぞありける。竹河謠ひてみはしのもとにふみよる程、過ぎにし夜のはかなかりし遊も思ひ出でられければ、ひがごともしつべくて淚ぐみけり。后の宮の御方にまゐれば上もそなたに渡らせ給ひて御覽ず。月は夜ふかうなるまゝに晝よりもはしたなう澄み昇りて、いかに見給ふらむとのみ覺ゆれば、ふむ空もなう漂ひありきてさかづきもさして一人をのみ咎めらるゝはめいぼくなくなむ。夜一夜所々にかきありきていと惱しう苦しくて臥したるに、源侍從を院より召したれば「あなくるし。しばし休むべきに」とむつかりながら參り給へり。御前の事どもなど問はせ給ふ。「かとうはうち過ぐしたる人のさきざきするわざを、選ばれたるほど心にくかりけり」とてうつくしとおぼしためり。ばんずんらくを御口ずさびにし給ひつゝ御息所の御方に渡らせ給へれば御供に參り給ふ。物見に參りたる里人多くて例よりも花やかにけはひ今めかし。渡殿の戶口に暫し居て聲聞き知りたる人に物などのたまふ。「一夜の月かげははしたなかりしわざかな。藏人の少將の月の光に輝きたりし氣色も桂の影にはづるにはあらずやありけむ。雲の上近くてはさしも見えざりき」など語り給へば人々哀と聞くもあり、「闇はあやなきを月ばえ今少し心ことなりと聞えし」などすかしてうちより、

 「竹河のその夜のことは思ひいづやしのぶばかりのふしはなけれど」とはかなきことなれど、淚ぐまるゝもげにいと淺くは覺えぬことなりけりとみづから思ひしらる。