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物のついでに御覽じつけてやらせ給ひなどするに、かの須磨のよろほひ所々より奉り給ひけるもある中に、かの御手なるは殊にゆひあはせてぞありける。みづからしおき給ひけることなれど久しうなりにける世のことゝおぼすに、只今のやうなる墨つきなど實に千とせのかたみにしつべかりけるを見ずなりぬべきよとおぼせば、かひなくて疎からぬ人々二三人ばかり御前にてやらせ給ふ。いとかゝらぬほどのことにてだに過ぎにし人の跡と見るは哀なるを、ましていとゞかきくらし、それとも見わかれぬまで降りおつる御淚の水莖に流れそふを人もあまり心よわしと見奉るべきが、かたはらいたうはしたなければおしやり給ひて、

 「しでの山越えにし人をしたふとて跡を見つゝもなほまどふかな」。さぶらふ人々もまほにはえひろげねど、それとほのぼの見ゆるに心惑ひどもおろかならず。この世ながら遠からぬ御別のほどをいみじとおぼしけるまゝにかい給へる言の葉、實にそのをりよりもせきあへぬ悲しさやらむかたなし。いとうたて、今ひときはの御心惑ひもめゝしく人わろくなりぬべければ、能くも見給はでこまやかに書き給へるかたはらに、

 「かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲ゐの烟とをなれ」とかきつけさせ給ひて皆やかせ給ひつ。御佛名も今年ばかりにこそはとおぼせばにや、常よりもことにさくぢやうの聲々などあはれにおぼさる。行く末ながきことを希ふも佛の聞き給はむことかたはらいたし。雪いたうふりてまめやかに積りにけり。導師のまかづるを御前にめしてさかづきなど常の作法よりもさしわかせ給ひて殊に祿などたまはす。年比久しくまゐり公にも仕うまつ