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きなどうるはしからず重なりて、裳、唐衣もぬぎすべしたりけるをとかくひきかけなどするに、葵を傍に置きたりけるをとり給ひて「いかにとかや、この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、

 「さもこそはよるべの水にみ草ゐめけふのかざしよ名さへわするゝ」とはぢらひて聞ゆ。げにといとほしくて、

 「大かたは思ひ捨てゝし世なれども葵はなほやつみをかすべき」など一人ばかりはおぼしはなたぬけしきなり。五月雨はいとゞながめくらし給ふより外の事なくさうざうしきに、十餘日の月花やかにさし出でたる雲間のめづらしきに大將の君御前にさぶらひ給ふ。花たちばなの月かげにいときはやかに見ゆるかをりも追風なつかしければ千世をならせる聲もせなむとまたるゝほどに、俄に立ち出づるむら雲のけしきいとあやにくにておどろおどろしうふりくる雨にそひて、さと吹く風にとうろも吹きまどはして空くらき心地するに、窓をうつ聲などめづらしからぬふるごとをうち誦し給へるも折からにや。妹が垣根におとなはせまほしき御聲なり。「獨住みは殊にかはることなけれどあやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせむにもかくて身をならはしたらむはことなう心すみぬべきわざなりけり」などのたまひて「女房こゝにくだものなど參らせよ。男ども召さむもことごとしき程なり」などのたまふ。心にはたゞ空を眺め給ふ御氣色のつきせず心苦しければかくのみおぼしまぎれずは、御行ひにも御心すまし給はむことかたくやと見奉り給ふ。ほのかに見し御面影だ