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つかひ侍りし程に、いとゞあるかなきかの心ちになりてなむ得聞えぬ」とあれば、「こは宮の御せうそこか」と居なほりて「心苦しき御なやみを、身にかふばかり歎き聞えさせ侍るも何のゆゑにか。かたじけなけれど物をおぼししる御有樣などはればれしき方にも見奉りなほし給ふまでは、たひらかに過ぐし給はむこそ誰が御ためにもたのもしきことには侍らめと推し量り聞えさするによりなむ。唯あなたざまにおぼしゆづりてつもり侍りぬる志をもしろしめされぬは、ほいなき心ちなむ」と聞え給ふ。「げに」と人々も聞ゆ。日入りがたになりゆくに、空の氣色も哀にきりわたりて山の蔭はをぐらき心ちするに、ひぐらし鳴きしきりてかきほにおふるなでしこの打ち靡きける色もをかしう見ゆ。お前の前栽の花どもは心に任せて亂れあひたるに水の音いと凉しげにて山おろし心すごく松の響木深く聞えわたされなどして、不斷の經よむ時かはりて鐘打ちならすにたつ聲もゐかはるもひとつにあひていとたふとく聞ゆ。所から萬のこと心ぼそう見なさるゝも哀に物思ひつゞけらる。出で給はむ心ちもなし。りしも加持する音して陀羅尼いとたふとくよむなり。いと苦しげにし給ふなりとて人々もそなたに集ひて大方もかゝるたび所に數多參らざりけるにいとゞ人ずくなにて宮はながめ給へり。しめやかにて思ふ事も打ち出でつべき折かなと思ひ居給へるに、霧のたゞこの軒のもとまで立ち渡れば「まかでむ方も見えずなりゆくはいかゞすべき」とて、

 「山里のあはれをそふる夕霧にたちいでむ空もなきこゝちして」ときこえ給へば、

 「山がつのまがきをこめて立つ霧もこゝろそらなる人はとゞめず」。ほのかに聞ゆる御け