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将軍二人も歸還し、斬首獲虜合せて千四百餘人と稱せられ、翌六年四月、其の将軍以下は、蝦夷征伐に從つた人々と共に勲位を授けられて居る。 また同七年四月に、太宰府は、「日向・大隅・薩摩の三國の士卒、隼賊を征討し、頻に軍役に遇ひ、兼ねて年穀登らずして、交々も飢寒に迫る。 謹んで故事を案ずるに、兵役以後、望むらくは天恩を降し、復三年を給へ」と奏して之を許され、從軍の士卒に三年の免租を賜つて居る。

〈 〔補説〕 承和十一年六月十七日の宇佐八幡宮彌勒寺建立縁起に、「養老四年大隅日向兩國。有征罰事。大御神詫波豆米宣。隼人等多殺報。毎年放生會可之」とあり、また扶桑略記には「大隅日向兩國亂逆、公家訴請於宇佐宮其禰宜辛嶋勝代豆米相率神軍。行征彼國、打平其敵」と記し、宇佐宮の禰宜が親しく神軍を率ゐて出征した事を述べ、次いで大神が託宣して放生を修せしめたと云ふ。 水鏡はこの扶桑略記の文を受けて殆んど同じ様な事を傳へてゐる。

宇佐託宣集には、之を養老三年に誤つて居るが、此の時、隼人が、奴久良・幸原・牛屎・志加平・曾於之石城・比賣城に據るなどあるは、幾分の事實であらうか。 〉

 而して、一方、養老七年五月、大隅薩摩二國の隼人等六百二十四人が入京し、餐を賜ひ、各其の風俗歌舞を奏し、酋帥三十四人が叙位賜禄の榮に浴し、六月歸郷して居る。 これは六年交替の貢上隼人であつて、それから六年目の天平元年の六月にも、薩摩隼人等調物を奉り、太極殿閤門にて風俗歌舞を天覧に供して、授位賜禄の榮に浴し、翌七月には、大隅隼人調物を貢し、大隅隼人姶羅郡少領從七位下勲七等加志君和多利及び外從七位上佐須岐君夜麻等久々賣とが外從五位下に叙せられ、自餘の者も叙位賜禄の榮に浴した。 次いで天平七年七月、大隅・薩摩二國の隼人二百九十六人入朝して調物を獻じて居るのも、六年交替の入京であるが、例の如く太極殿にて方樂を奏し、二國の隼人三百八十二人が爵并に禄を賜はつた。

 斯くの如く、大隅・薩摩兩國の隼人も次第に皇化に浴して事なき状態であつたが、藤原廣嗣の亂が起ると共に、兩國の隼人は官賊兩軍に屬して相闘ふ事となつた。 天平十に年八月太宰少貮藤原廣嗣上表して、時政の得失を論じ、遂に兵を起して反するや、九月三日、朝廷即ち大野朝臣東人を大将軍と爲し、紀朝臣飯麻呂を副将軍とし、軍監・軍曹各四人、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍一萬七千人を徴發したが、翌四日には、特に在京隼人二十四人を召し、右大臣橘諸兄が勅を宣べて位を授け、又服を賜ひ、之を激勵して戦地に向はしめて居る。

 戦闘は豊前國に起り、官軍相次いで豊前に渡り、隼人二十四人と軍士四千人