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處を見れば、或は別に和銅年間にも重ねて隼人征伐があつたかとも推測されるのである。 翌七年三月の勅にも、「隼人は昏荒、野心にして未だ憲法に習はず、因りて豊前國の民二百戸を移して勸導せしむ」と仰せられて居る。 和名抄に、大隅國桑原郡に豊國郷が見えるが、恐らく豊前國民を移した地であつて、これ等の事から考へると、和銅年間の隼人平定も否定出來ず、その反亂の地域は北大隅であつたかと考へられるのである。

 その後、霊龜二年五月に、太宰府から、「薩摩大隅二國、隼人を貢して巳に八歳を經過して居るが、道路遥に隔り、去來便ならず、或は父母老疾し、或は妻子貧しく、故に貢人を六年交替にしたい」と願つて許されて居る、これは八年前の和銅二年の隼人の入朝を指すのであつて、翌養老元年四月に、大隅・薩摩二國の隼人が入朝して、風俗歌舞を奏し、授位賜禄の榮に浴して居るのは其の結果である。

 斯様に隼人入京の事は從來通りに行はれて居るけれど、養老四年に又も大亂が起つて居る。 それは此の歳二月に隼人が反して、大隅國守陽候史麻呂を殺したに端を發して居る。 陽候史は、新撰姓氏録に隋煬帝の後とあつて、歸化人の後であるが、その一族が、大隅守となつて任にあつたと云ふことは、百済王の一族が陸奥守となつてゐたことゝ共に、朝廷の歸化人の後に對する方策と邊國統治の一面とを窺ふに足るものであらう。 而して比度の反亂も大隅北方の隼人であつたと推察されるが、朝廷では三月、中納言大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍と爲し、授刀助笠朝臣御室と民部少輔巨勢朝臣眞人とを副将軍と爲して征途に就かしめた。 六月には

蠻夷の害を爲すこと古より之あり、漢五将を命じて驕胡臣服し、周再駕を勞して荒俗來王す。 今西隅の小賊、怙亂を怙み、化に逆て、屢良民を害す。 因て持節将軍正四位下中納言兼中務卿大伴宿禰旅人を遣はして、其の罪を誅罰し、彼の巣居を蓋さしむ。兵を治め、衆を率ゐて兇徒を剪り掃ひ、酋帥面縛せられて命を下吏に請ふ、寇黨叩頭して争うて敦風に靡く。 然れども将軍原野に暴露して久しく旬月を延ぶ時は盛熱に屬す、豈に艱苦なからんや。 使を遣はして慰問せしめ、宜しく忠勤を念ふべし。

と優詔を将軍らに賜ふた。 かくして、八月には旅人は歸京したが、亂未だ全く平がざるを以て、猶ほ副将軍巳下を留めて征伐に當らしめられた。 九月には亂逆の治平を宇佐宮に祈請し給ふ事などあり、翌養老五年七月に至り、漸く副