Page:Kagoshima pref book 1.pdf/81

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とは、九月二十二日勅使佐伯禰常人・安倍朝臣虫麻呂等に率ゐられて渡海し、板櫃營に鎭した。附近の諸豪族も各兵を率ゐて集り、各地に於て賊徒を鎭定に力めた。 またその間、大将軍東人に命じて宇佐八幡宮に兵亂の平定を祈請せしめた。 廣嗣の方でも一萬餘騎を率ゐて、板櫃河に到り、自らも隼人軍を率ゐて前鋒と爲り、木を編みて船と爲し、将に河を渡らんとしたが、官軍佐伯安倍の二将の兵が弩を發して之を射たので退いて河西に陣し、河東の佐伯等の軍士六千と相對した。 この時官軍では、隼人等をして大聲を以て、「逆人廣嗣に随ひて官軍を拒捍する者は、直に其の身を滅するのみならず、罪は妻子親族に及ばん」と叫ばしめたところ、廣嗣方の隼人并に兵士之を聞いて、敢へて箭を發しようともしない。 佐伯常人等も亦、遥に廣嗣を呼ぶ事十度、廣嗣、猶ほ答へなかつたが、やがて馬に乗つて出で來り、常人等の勅使たるを知つて馬から下り、兩段再拝して、「朝命に逆ふのではない、朝廷の亂人玄〈[口と方]〉法師と吉備眞備との二人を請ふのみである」と答へたが、更に常人「勅符を賜らんがために太宰典巳上を召喚するに、何が故に兵を發したか」と咎めたに對して、廣嗣遂に辭窮し、馬に乗つて却いた。 時に賊中の隼人三人、直に河を泳いで降服せんとしたので、朝廷方の隼人は之を扶け救つて、遂に岸に著くを得たが、續いて隼人二十人、廣嗣の配下十騎許も歸順した。 此の時降服した隼人囎唹君多理志佐は、「廣嗣自ら大隅・薩摩・筑前・豊後等の軍兵五千を率ゐて鞍手道より進み、網手は筑後・肥前などの兵五千を率ゐて豊後國より進み、多胡古麻呂は田河道より進まむとしたが、網手古麻呂の兵は未だ來ない」と云つて、賊軍の策戦の状況を報じて居る。 かくて賊軍全く潰え、廣嗣は肥前に逃れ、十月二十三日、松浦郡値嘉島長野村に於いて、進士兂位安倍黒麿の爲に捕へられて、十一月一日に至り、網手と共に斬られ、其の徒相次いで罪科に處せられて、兵亂こゝに鎭定した。 大将軍大野東人以下官軍の将士皆賞に與り、曾乃君多理志佐等も外正六位上から外從五位下に叙せられて居る。 即ち此の廣嗣の反亂に當つては、大隅・薩摩の軍兵多く之れに從つたであらうが、また官軍を勝利に導いたものは實に隼人の力であり、殊に歸降の隼人囎唹君多理志佐であつたと見なければならない。

 その後天平十五年七月三日、聖武天皇石原宮に御し給ひて、特に隼人に餐を賜ひ、外從五位下曾乃君多利志佐は外正五位上に、外正六位上前君乎佐は外從五位下に、外從五位上佐須岐君夜麻等久々賣は外正五位上に叙せられて居る