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器具の如きは南島諸國多くの類似のものを用ゐて居たであらうから、單に布甲の同一を以つて、兩者を同一と見る事は甚だ危險である。 併しこれに據つて、妹子等我が國中央の官人が、南島に關する相當な知識を持つて居た事だけは確實と見ねばならぬ。 從つて我が國の朝廷と南島との交通は、可なり古い時代から開けてをり、南島諸國は史籍に記録される以前、既に我が國に屬して居たと見なければならない。

 その後、日本書紀に據れば、推古天皇の廿四年三月、掖玖人三口歸化し、五月には夜句人七口來朝し、七月又掖玖人廿口來朝して、前後合して卅人、大和の朴井に安置したが、歸國せずして皆死んだと見える。 夜句と掖玖とは同一で、隋書の夷邪久に當る事も争ふ餘地がない。 併し、斯く數回に亘つて渡來し、其の跡、廿八年八月に、掖玖人二口が伊豆國に漂流した事などは何に因つてゞあらうか。 南聘紀考には、前述の如く、隋が流求を征伐したのを惡み、愈皇國に服した爲だとしてゐる。

 併し、此の隋の流求征伐なるものは可なり大規模のもので、南方諸國人を率ゐ、崑崙人を通辨とし、其の都に進軍して宮室を焚き、数千人を虜としたと云ふのであるから、南島としては前古未聞の大事件であつたに違ひない。 從つて、其の事は流求以北の島々に喧傳されたであらう。 掖玖人が三月・五月・七月と相次いで來朝したのも、或は南聘紀考の推測した如く、我が國に頼らんとした結果であるかも知れぬ。 但し前述の如く、此れ以前も屢來朝してをり、又我が國の使臣が隋に於いて、南島人の布甲を以て、直ちに掖玖人のものと即斷した程であつたのだから、突如として此の時初めて來朝したのでない事も明白である。

 その後十年を經て、舒野天皇の元年四月、田部連が掖玖に遣はされてゐる。 何の爲に遣はされたのか何等の記載もないが、翌年九月に歸朝し、その翌三年二月に掖玖人の來朝して居る處を見ると、前述、推古天皇の御代の來朝と關聯するものであつて、掖玖が我が國に頼らんとして、何事かを奏する處があつた爲であらうと考へられる。 勿論、田部連とは朝廷の御田の事に關係する氏であるが、その派遣は視察と云ふ事が主たる任であつたらう。

 さて此處に注目する必要のあるは、我が國史の南島に關する記事が、掖玖に始り、大化以後に於いては、大體多褹が中心となつて居る事實である。隋書