Page:Kagoshima pref book 1.pdf/72

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の記事に據つて、掖玖を直ちに流求とするの危險なことは上述の通りであるが、さりとて、當時掖玖とある記事を以つて、單に今日の屋久島のみの事とする時は、より九州に近く、且つ面積大にして海岸線に富む多褹島が、何が故に古く國史に現はれないかを説明する事が出來ぬ。 單に此の一事を以つてするも、掖玖は少くとも薩・隅に近い島々の總名であつたのでなからうかと想像され、大化以降、多褹が中心となつて居るのは、多褹が最も九州に接近し、統治上便利であると云ふ事から、國府を此の島に置いた爲に外ならないと思ふ。 而して天平五年六月に至り、多褹島熊毛郡の大領安志託等が多褹の後の國造の姓を、益救郡の大領加理伽等が多褹直の姓を賜はつてゐるが、多褹島の南なる掖玖島の郡と考へられる益救郡の大領が、國造の家柄たりしを表章する多褹直の姓を賜ひ、多褹島内なる熊毛郡の大領が多褹の後國造の姓を賜はつたのは何故であらうか。 思ふにこれは前述の如く、初め掖玖島が此の群島の中心をなして、國造と稱したか否かは詳かでないにしても、兎に角、國造に匹敵する豪族が此島にゐて、他の諸國と同様、後に郡領に補せれた爲であらう。 また多褹島なる熊毛郡の大領が後國造となつた事は、多褹島が國府の所在地となつた爲であらう、後なる語が時代の前後を指す事は、三野の前後の國造の例に據つて知る事が出來る。

〈 〔補説〕 國の前後は、筑前・筑後・肥前・肥後の如く、多く京都よりの距離の遠近に據るを例としてゐる、若しこれによれば「多褹後」の語も「多褹前」に對する語であらう。 然るに多褹の後の國造となつた熊毛郡大領が多褹島の南半に居り、多褹直となつた益救郡の大領がその北半にゐたとは考へることが出來ない。熊毛郡と益救郡との關係に就いては後章に説かなければならないが、熊毛郡が多褹後である場合に、多褹前なる地は地理上存在し難い。即ち此の語は國にかゝるものでなくして、國造にかゝる前後と考へなければならない。 國造本紀の三野の前後國造についても數説あるが、西濃、即美濃平野中、西部の本巣附近を前國とし、東部の厚見附近を後國と見なければならない、兩者の距離は近く、殊に神社及び古代の氏族の分布より見るも、三野國六郡の地は、後國造の勢力なりし事實甚だ顕著であり、なほ前國造にかゝるにあらずして、國造にかゝる語なるを知り、多褹後國造も同様に解禁したいのである。 〉

 尚ほ南島唯一の式内社益救神社が掖玖島に鎮座する事も、掖玖が古く當地方群島の中心たりし一の證と見るべきもので、當社は古く國造の宗社であつたかと考へられるのである。