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る。 その地は方三四町で平坦、南の一面のみ高さ一丈餘、切岸の如くなつて居るが、蓋し國衙 は此の上に建てられ、南面して居たと考へられる。 他國にも斯様な地形の場所に國衙が在り、その郷を高家郷と呼ばれて居る所から想像して、當國高城の郡名も此の國衙の地から起つたもので、恐らく古くは此の邊まで薩摩郡内であつたかと思われる。 後世、紀綱亂れ、國衙の官人が國政を専らにするに及んで、多くは東郷に在つて國政を執り、之れを國司城と稱した。

 大隅の國府は桑原郡國分郷府中村即ち今の姶良郡國分町府中にあつて、守公神社に隣接した地に國衙の遺蹟が残つて居る。 守公神社は諸國々衙の地に多く鎮座するシュミヤに外ならぬ故、此の地が國衙の遺蹟である事は疑ひがない。

 多褹國府の地は島北、國上方向との二説あるが、或は西之表附近で、甲女川の甲は國府コフの訛とも考へられる。


第二章 南島經營と多褹國廃止

 南島に關する事は、我が國の文獻には推古天皇以前全く見えてない。 併し隋書の流求國傳に據ると、隋の煬帝は将を遣はして之を討ち、都に進軍して其の宮室を焚き、男女數千人を虜としたと記して居る。 隋の大業三年は我が推古天皇十五年であつて、日本書紀に據れば、この年七月、小野妹子・鞍作福利等が隋に遣はされ、翌十六年に歸朝し、同年九月、妹子復び隋に使し、十七年隋の大業五年九月に妹子は歸朝したが、福利は猶ほ彼の國に止つたと見える。 然らば隋書に云ふ所の倭國の使とは妹子等を指す事が明白である。 よつて伊地知季安の南聘紀考は、隋書に載する所の流求は夷邪久國、即ち掖玖であると説いて居る。 併しながら、倭國の使が云つた夷邪久が掖玖を意味してゐるとしても、隋の征服した流求が正しく掖玖であると云ふ推定は餘りに即斷過ぎる、