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(7)塞の神式土器 伊佐郡菱刈村市山塞ノ神遺蹟より發見されたもので、口頸がく字形になつて居る。大口盆地より日向國大淀川流域に及び、更に薩南にも肥後球磨にも存して居る。
(8)御領式土器 肥後東阿高御領貝塚の基調をなすもので、本縣ではまた大口の羽月村瀬の下より出土したが、他には未だ知られてゐない。
(9)鐘崎式土器 筑前宗像の鐘崎貝塚より多量に發見される磨消繩文的手法を有する一群の土器で、海岸地方に分布し、球磨地方から伊佐郡等の三巻では斷片的の出土のみである。
(10)西平式土器 肥後八代西平貝塚から多量に出で、器面滑澤、御領式に比しやや多彩な文様を有する點に相違がある。 合志川流域・八代灣沿岸に分布し、球磨を經て伊佐に入りて其の跡を斷つて居る。

 之を要するに本縣の石器時代遺蹟の基調をなす土器形式の内には、阿多式・市來式などの如く、アナダラ屬貝殻による條痕を有して、遥か南方印度支那方面と聯繋を有すると考へしめるものの三系統が考へられるのである。 これ等の三系統の外に、現在學界に問題となつてゐる所謂押型文土器が廣く點綴されてゐるが、すべてこれ等が薩隅といふ地域的環境の下に統括されて特殊な形式を各々の系統に於て發展させてゐるのが認められるのである。

 次に古墳について考察を試みなければならないが、高塚式古墳は實に我が國原史時代の遺蹟として最も顕著なもので、即ち國造時代前後の大觀を示すものである。たゞ地理的關係上必ずしも他地方のものと同一視することは困難なことは言ふまでもない。

 本縣に於いて古墳は大隅平原に密集して居る。 凡そ大隅半島の西海岸に沿ひ、高隈山脈より南走する丘陵地帯以東の平原、即ち鹿屋・姶良・高山・串良・東串良等より囎唹郡の大崎村に及ぶ諸地方に多く、それより志布志町の海岸を經て日向の福島に連つて居る。此の古墳散在地方は、北西南の三方山で圍まれ、東方のみ海に開けた地であつて、肝屬川以下の諸河川が之を潤してゐる。古墳は宮ノ原・東迫・塚崎の如く、山岳丘陵の縁邉に存するものも尠くないが、多くは平地に存して居る爲、開墾されて痕迹を失つたものも尠くない。現存するもので最も顕著なるは、塚崎と唐仁町との兩古墳群及び横瀬の古墳である。