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 塚崎は高山町野崎の小字であつて、國見山に續く丘陵地帯に前方後圓墳四基と圓墳二十七基が群をなし、その西の東迫及び其の北の稲荷迫等を合すれば六十餘基に達してゐる。 副葬品は詳かでないが嘗つて當地の小圓墳より鏡を發掘し、又附近の民家には同地方に於いて採集せる匂玉を藏してゐる。當地方何れかの古墳より出でしものとすれば、この地方としては珍稀の事である。

 唐仁町は東串良町新川西にあつて、其の古墳群は縣下第一にして、古くは百八十五基を數へ、現存するものにても百三十二基に及んでゐる。 其の内、最も大なるは大塚と稱せらるゝ前方後圓墳で、高さ八間の後圓部に大塚神社が鎭座し、縱徑百間に及ぶ、但し社地となつて以來、或は社殿建造のため、或は参拝路を造るために變更された部分が多く、原形は知るによしないが、現在は七反三畝餘で、周圍に幅約十二間の湟が繞つてゐる大古墳である。 神殿と拝殿との渡り廊下の下には石槨の蓋石五枚露出し、槨の内部は長さ約二間、幅約五尺であつて、其の中に凝灰岩より成る家形の石棺が安置され、棺外に甲が置かれてゐる。尚ほ又社殿の状下にも石室一個が露出しているのを見ることが出來