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式とが存在してゐるのに對して、大口盆地では阿高式の盛行と共に、日勝山・塞ノ神に於いては、やゝこれと異なるものの存在を見るが、市來式の絶えて存在しないことは第一の地域との相違を示すものである。 大口盆地のものは、その地が大淀川を經て宮崎縣へ連り、更に北方球磨に續く地理的な事情から、海岸地方との關係よりも、肥後地方に連繋する多くのものを有してゐるのである。第三の地域のものは第一の地域に見ると著しい相違を示さないが、宮崎縣の海岸遺蹟とその様相が近似してゐるのは、第一の地域と同じく、その文化の移動徑路を示唆するものであらう。

〈 [補説] 本縣下の石器時代遺蹟の分布に就いては、山崎五十鷹氏が「鹿兒島縣下石器時代の遺蹟並に古墳分布の大系」(鹿兒島縣史蹟名称天然記念物調査報告書二輯)に於いて、A鹿兒島灣系、B有明灣系、C西薩海岸系、D北薩及北隅系の四大系に分類し、その遺蹟及び遺物を表示させてゐる。然るに最近三森定男氏が、九州地方に於ける土器調査の結果「先史時代の西部日本」(人類學先史學講座第一編)なる論文に於いて、九州に十二種の土器の存在を主張されてゐるが今主として本縣下に於ける分を簡單に紹介すれば左の如きものである。

(1)阿多式土器 本縣阿多貝塚を標準として、また肥後宇土郡轟村宮荘貝塚から多量に發見されたる種類で、器面にアナダラ屬の貝殻腹縁による條痕が横走し、隆起絹帯文或は點線文を有するものである。 大口盆地に廣く分布し、大隅各地にも散見するが、南薩に多く、大體、阿多貝塚より轟貝塚へと發展したらしく考へられる。
(2)市來式土器 突角形をなす口縁部を有するのが特徴で、器の内外面にアナダラ屬貝殻條痕のあるものが尠くなく、薩南より海岸地方に沿ひ、出水尾崎貝塚を經て肥後・肥前にかけて存し、鹿兒島灣沿岸地方では、指宿遺蹟・鹿屋町中の原遺蹟等に出土するが、伊佐郡の如き山間地方には全くない。
(3)阿高式土器 肥後阿高貝塚より多く出で、指頭或は箆を以て太き凹線を描いて各種の文様を構成するのを特徴とする物で、太形凹文土器とも呼ばれて居る。肥前五島より本縣出水、大口地方まで即ち内海に沿うた地に多く、それ以南は稀である。
(4)日勝山式土器 伊佐郡山野村小木原日勝山及び肥後宇土郡花園村曾畑貝塚の基調をなすもので、阿高式の太形凹文土器に對し、やゝ細き沈線を以つて直様文様を構成する。肥後より北薩に多く、其の並行集線文は朝鮮各地の櫛文式土器に似て居る。
(5)徳之島土器 徳之島貝塚より發見される爪形文を有する土器で、肥後轟貝塚からも相當出てゐる。
(6)轟式土器 爪形文類似の諸種の文様要素にて文様帯を作つてゐるが、特徴は文様要素及び文様構成よりも、文様帯間を指頭によつて凹めて、突帯文的効果をあげて居る點にある。肥後轟貝塚を中心として有明海沿岸に汎く存し、本縣では伊佐郡の山間に分布してゐる。