「ええ、決して、その御心配には及びません」
予審判事は、ジロリと手塚に一瞥を与えながら、青年に促すように云った。
「どう云う事ですか。承りましょう」
「は、では」
始めますと云う言葉を口の中で云って、青年理学土は、まるで時間を切って講演でもする人のように、
「お話を始めます以前に、よく知って頂かなくてはならない事は、学者と云う者が、いかに偏狭で、名誉心が強いかと云う事であります。もっとも、学者が全部そうだと申すのではありませんが、もし、商人が金のためにどんな事でもすると云う事が、云えますならば、学者は名誉のためなら、どんな事でもすると云えると存じます。例えば学者は、彼の愛弟子が彼を
私にはこの青年が、何を云い出す
「みなさん、ここに一人の偏狭な学者があったと御想像下さい。彼はその専門の学問に於て、最高権威であると、自らも許し、又、人も許していると信じていました。彼は全く学問の方では素晴らしい業績を残していました。そうして、今や、彼は表面学界を隠退して、秘密裡に
彼に一人の愛弟子がありました。ところが、いけない事には、弟子も師に負けないほど偏狭で、その上に、斯界の名声に於ても、次第に師を圧するほどになって来たのでした。更にいけない事は、彼が師の研究に感づいた事です。彼も学問に於ては素晴らしいものでした。ですから、師の研究に感づく力もあり、それを盗む力もあった訳です、いや、彼を置いては、他にそれだけの力のあるものはありますまい。師の学者が、この弟子に非常な脅威を感じたのは、
以上に挙げただけでも、この師弟の間に、もしかすると、互に相手の消失を願うと云う、非人情的でもあり、又人間的でもある願望が浮ばなかったとは云えません。ところが、最後に、それを決定的にしたものは、師の学者の妻が若く美しく、弟子の学者もまた若く美しかった事でした。
私は最後の問題については、確定的な事を云うのは控えますけれども、一二の事実から、この若き二人の男女の間に、老いたる学者の疑惑を起すに足る十分なものがあったと信じます。営々として、築いた学界の名声が、手塩にかけて育て上げた弟子によって、脚下から崩され、半生の努力を尽して、まさに成功しようとしている研究は、彼によつて危殆に瀕し、その上に、最愛の妻さえ危く盗まれようとしているのを感じた老博士は、その愛弟子に対して、限りない憎悪と、嫉妬と、憤激を感じたのでした。
これが