Page:KōgaSaburō-Yōkō Murder Case-Kokusho-1994.djvu/18

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「ええ、決して、その御心配には及びません」

 予審判事は、ジロリと手に一瞥を与えながら、青年に促すように云った。

「どう云う事ですか。承りましょう」

「は、では」

 始めますと云う言葉を口の中で云って、青年理学土は、まるで時間を切って講演でもする人のように、おもむろにポケットから時計を出して、机の上に置いた。(私は彼の動作に釣られて、そっと時計を見たが、二時を三十五分ばかり過ぎていた)ママ

「お話を始めます以前に、よく知って頂かなくてはならない事は、学者と云う者が、いかに偏狭で、名誉心が強いかと云う事であります。もっとも、学者が全部そうだと申すのではありませんが、もし、商人が金のためにどんな事でもすると云う事が、云えますならば、学者は名誉のためなら、どんな事でもすると云えると存じます。例えば学者は、彼の愛弟子が彼をしのぐような名声を得て参りますと、喜ぶ代りに非常な嫉妬を起します。又、自分の研究は秘し蔵しながら、他人の研究は、これを盗んでてんとして恥じないものであります。師弟の間柄と申しますと、そこには、云うに云われない、美しい情愛がかもされるべきだと思いますのに、それが最高権威の学者であればあるだけ、反って、師弟は互に嫉妬し合い、疑い合い、探り合い、さながら、仇敵のように憎み合うと云う事は決してまれではないのであります」

 私にはこの青年が、何を云い出すつもりであるかと云う事が、ほぼ分った。星合判事にも、又、手にも、やはりその事は分ったのであろう。彼等は私と同じく、熱心に青年の云う所に耳を頃けていたのだった。

「みなさん、ここに一人の偏狭な学者があったと御想像下さい。彼はその専門の学問に於て、最高権威であると、自らも許し、又、人も許していると信じていました。彼は全く学問の方では素晴らしい業績を残していました。そうして、今や、彼は表面学界を隠退して、秘密裡に孜々ししとして、或る研究に没頭していました。

 彼に一人の愛弟子がありました。ところが、いけない事には、弟子も師に負けないほど偏狭で、その上に、斯界の名声に於ても、次第に師を圧するほどになって来たのでした。更にいけない事は、彼が師の研究に感づいた事です。彼も学問に於ては素晴らしいものでした。ですから、師の研究に感づく力もあり、それを盗む力もあった訳です、いや、彼を置いては、他にそれだけの力のあるものはありますまい。師の学者が、この弟子に非常な脅威を感じたのは、けだし当然の事でありました。

 以上に挙げただけでも、この師弟の間に、もしかすると、互に相手の消失を願うと云う、非人情的でもあり、又人間的でもある願望が浮ばなかったとは云えません。ところが、最後に、それを決定的にしたものは、師の学者の妻が若く美しく、弟子の学者もまた若く美しかった事でした。

 私は最後の問題については、確定的な事を云うのは控えますけれども、一二の事実から、この若き二人の男女の間に、老いたる学者の疑惑を起すに足る十分なものがあったと信じます。営々として、築いた学界の名声が、手塩にかけて育て上げた弟子によって、脚下から崩され、半生の努力を尽して、まさに成功しようとしている研究は、彼によつて危殆に瀕し、その上に、最愛の妻さえ危く盗まれようとしているのを感じた老博士は、その愛弟子に対して、限りない憎悪と、嫉妬と、憤激を感じたのでした。

 これが市井しせいの、眼に一丁字もない人間の間に起ったとしたら、うに、原始的な兇器を振り廻して、