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新聞の社会面の片隅を賑わしていた事でしょう。しかし、二人の科学者の間に起った人間闘争は、そんな簡単な生優しいものではありませんでした」

 この青年はさして雄弁家とは思われなかった。しかし、その荘重な弁舌と、暗示的な言葉は、私に何かしら、科学者の恐るべき闘争について、戦慄の予感を与えた。科学について、多少理解している私でさえそうだったから、科学とは大分縁の遠い予審判事と、弁護士とは、恐怖に近い予感を与えられたらしく、前者の顔はやや蒼白になり、後者の、いつも人を小馬鹿にしているような顔は、今までになく緊張していた。

「普通の人間の場合なら、短刀が飛ぶ、ピストルが鳴る、それだけの事でしたろう。ところが、二人の闘争は、表面的には小波さざなみ一つ立たない池のおもてのようで、しかも内心には火花を散らして、いかにして安全に相手を消失させるべきか、と云う事ばかり考え続けていたのです。

 先ず、闘いは老博士から始まりました。彼は若い博士を取除く素晴らしい考案をしました。それは見えない光線を使う事でした。紫外線赤外線と云えば、みなさんはよく御存じですから、くだくだしい説明はいたしませんが、我々の眼には光線のうち、ある範囲の波長のものだけ見えて、その波長より大きい紫外線と、その波長より小さい赤外線は見えません[入力者注 1]。しかし、それらの光線は、我々の眼には感じないが、或種の化学的及び物理的の働きは立派にするのです。

「みなさんは赤外線を利用した盗難報知器を御覧になった事はありませんか。それは、一見何の仕掛もない場所を横切ると、ベルがけたたましく鳴り始めるのです。一見何の仕掛もない所には、実は光電池フオト・セルが隠されていて、それに、眼に見えない赤外光線が当てられています。そうして、赤外光線によって、電流の平衡が保たれていますが、人がその前を横切って、赤外光線を遮ぎりますと平衡が破れて、電流が流れ始め、ベルが鳴るのです。

 仮にベルの代りにピストルを置き、ベルを鳴らさせる代りに、ピストルの曳金ひきがねかせたらどうでしょうか。赤外光線は、全然人の眼に触れませんから、何の気もつかずに、それを遮った人が、ピストルの自動発射で、殺されてしまう訳です。

 老博士はこの恐るべき考案をした時に、定めし狂喜した事でしょう。彼は、彼が旅行にでも出かければ、彼の妻がきっと、若い博士を呼び込むと考えました。そこで、彼は寝室に通う廊下に、この装置をしたのです。もっとも、その前に、老博士は、この装置が若い博士にだけ働く事を、考案しなくてはなりませんでした。彼の妻や、女中が廊下を歩いた時に、ピストルが発射しては何にもならないからであります。

 この難問は、幸いに若い博士が非常に長身である事が、解決してくれました。彼は博士夫人や、女中に比べて、七八寸は背が高かったのです。赤外光線を夫人の頭よりやや高い所に置けば、夫人が通っても遮りませんから、装置は何等働きませんが、それに反して、もし若い博士が通れば、忽ち光電池フオト・セルの平衡は破れて、ピストルの弾丸たまは瞬間に飛出す筈であります。

 老博士は更に第二段の考慮をしました。それは、幸いに思う相手を斃す事が出来ても、装置を発見されては何にもならないので、ピストルの発射と同時に、火を発して、証拠となるべき装置を焼いてしまうと云う事です。博士は、ピストルが発射されると同時に、火薬が爆発する仕掛をしました。爆発と云う事は、疑惑を招き易い恐れはありますが、もし、ピストルの弾丸が外れて、相手に致命傷を与え得なかった場合には、相手に逃げられて、すべてのトリックが暴露しますから、たとえ、ピストルのねらいは外れても、完全に犯行が成し遂げられる方法を取ったのです。
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