Page:KōgaSaburō-Sōta's Experience-1994-Kokusho.djvu/7

提供:Wikisource
このページは検証済みです

 惣太は飛上った。女の声ではあるが、よし刑事でないにせよ、この夜更、しかも上野の森の中で、だしぬけに呼び留められるのは好い気持じゃない。夜遅く淋しい路を歩いて行って、暗がりからいきなり白い猫に飛びつかれた経験のある人は、今の惣太がそれだと思えば好い。

「――」彼は立止って闇をすかし見た。

「あの――」暗闇から出て来たのは確にママ女だった。みすぼらしい身装みなり赤坊あかんぼうを背負っている。遠くの街燈をたよりに、おぼろげながらにやつれた顔が見える。「お呼び止めして甚だ失礼でございますが、あなたは今あの家からお出になったと存じますが」女は洋館を指した。

 惣太はヒヤリとした。が相手は多寡たかが女一人だ。

「ええ、そうです」平気で返事をした。

「あれは一体どう云う家でございましょうか」女の問は意外である。

 惣太は弱った。

 実は彼にもどう云う家だか分らないのだ。

「どう云う家って?」彼は言葉を濁した。

「実は私の夫が今あの家にいるのでございます」女はちょっと言葉を切った。泣いているらしい。

「いいえ、あの家へ連れ込まれたのでございます。あの女が連れ込んだのです。あ、悪魔です、あの女は」おかみさんは到頭泣き出した。

 惣太の好奇心は極度に緊張した。

「あの人があんたの亭主かね、四十位の年配の髯を生やした――」

「お見かけになりましたか。お恥しい事でございます。いかにもあれが夫でございます。夫はあの女にすっかりだまされまして、うつつを抜かしております。貧しい銀行員の身で、無理工面をいたしまして、御覧の通り、私達には乞食同様の真似をさして、あの女に注ぎ込むのでございます。自力で稼ぎましたお金なら、男の甲斐性と申す事もございますが、あ、あの人は」女は泣きじゃくりながら、雄弁に口説くどき立てる。「あの人は銀行の金を盗んだのでございます。前々から可笑おかしいとは思っておりましたが、現在の夫が盗人とは思いもよりませんでした。女にうつつを抜かして、人様のものを盗む とは何と見下げ果てた事でございましょう」

 無論あたりに人は居なかったが、こう度々盗人と云われるのは、惣太にとっては有難くない事だった。

「おかみさん」惣太は云った。「もっともだけれども、いくらなんでも往来で盗人なんて大きな声を出すのは止したらどうだい。自分の亭主の事じゃないか」

「お言葉でございますが、盗人はどこまでも盗人に相違ございません」――こいつあ手がつけられねえなと惣太は心の内で思った。災難だと諦めて黙って聞く事にしよう。――おかみさんは涙声で訴え続ける。

「今日も今日とて、又女から無心でも云われたのでございましょう。銀行からお金を持出したのでございます。阿漕あこぎうらも度重なれば何とやら、銀行の方でも気がつかずには置きません。先程宅へ課長さんが見えまして、これ迄の所は又の話として、今日持出した五百円は明日の朝までに返えママして置かねば、表沙汰になるかも知れんから、早く、つかってしまわぬ中に、連れ戻すようにとの事でございます。私はこの子を背負まママして、半狂乱でうちを飛び出しまして、心当りをあちこちと訪ね歩き、ようやく居場所いどころを突留めた所でございます。けれども、私はどうもあの家に這入り兼ねるのでございます。