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「あら、そんな野暮な事を云わないで飲みましょう、ね、ウイスキー? ブラン?」

「そんなきつい酒はとても飲めないよ」

「まあ、お飲みなさいよ」

 女の細い足がヒラリと床について、暫く見えなくなると、やがて盆の上にグラスのふれ合う音がして、又女の足が見えた。

「あたしも飲みますから、あなたも飲んで頂戴。だって今日はあたしの望みが叶って、こんな嬉しい事はないんですもの」

「うん、のむよ」男の不精々々答える声が聞えた。

 惣太はさっきから考えていたが、どうも仲間内にはこんな女は思い出せない。畜生! 太いあまだ。ここはきっと淫売宿に違いない――それにしても洋館なのが不思議だ――淫売なら淫売で好い。客を喰え込んで、持物を掠めるとは太い奴だ。よしこっちにも覚悟があるぞ。そう思って、惣太は機会をねらっていた。

 やがて女は又長椅子に腰をかけて、思いきり足をブランブラン振り出した。惣太は不自由な身体を曲げて、やっと片手を出すと、矢頃を計って、鼻先へやって来た靴にちょっと指を触れた。はずみで、予期した通りに、靴はポロリと落ちた。彼は素早く手を入れて中のものを摑み出すと、用意して置いた洋服の腕からもぎ取ったボタンを入れた。断って置くが、惣太は安物の洋服を着ていた。彼は何となく洋館に忍び込むには洋服を着て行かねばならんと思ったので――。

 女はあわてて靴に足をつっ込んだが、指輪がボ夕ンに化けた事は気がつかなかったらしい。

 それから暫く女ははしゃいで喋りつづけた。男の方はうんとか、そうかとか言葉少なに受流していたがだんだん返事がなくなって、やがて四辺あたりがしんとした。

 気早の惣太、椅子の下で腹をへこまして肘を張って鎌首をもたげて見ると、女の足はもう見えないで、男の足だけが、斜めによじれたようになって、椅子から下っていた。じっとして動かない。惣太はちょっと突ついてみた。じっとしている。今度は力を入れてついて見た。矢張動かない。少ししやくに障ってきたので、思い切って突き飛ばすと、足は忽ち動いたが、すぐ元通りに斜になって静止する。惣太はそろそろ長椅子の下から這い出した。

 立上って見ると、椅子にもたれて、一人の男がだらしなく寝そべっている。安心すると共に惣太はのうのうと大きなのびをしたが、伸をしている中に彼はカッとなった。酔払ってグウグウ寝ている、それは未だ好いとして、あんな女に引かかる奴はどうせ青二才の腰抜野郎だと思っていた所が、こいつはどうだ、四十男の髯面だ。どう見たって女に好かれる顔じゃない。なんと云うざまだ。惣太はいきなり横面をり飛ばそうと思ったが、その瞬間に彼の職業意識が蘇えママった。金鎖がチョッキの胸で光っている。彼は忽ちチョッキのボタンを外した。内懐うちふところを探ると、手に当ったのは、一束の紙幣、天の与えである。彼は素早く、紙幣さつ束をズボンのポケットに押し込むと、さっさと窓を開けて外へ飛び下りた。生活のための職業だ。これ以上は時計だろうが、宝石だろうが振り向く惣太じゃない。



 窓から飛び下りると、例の低い石垣を乗り越えて、惣太はスタスタと鶯谷の方へ歩き出した。まだ十二時前だ。彼は鼻唄でも歌いたいような気分である。

 ものの半町とも行かぬ中に、暗闇からモシモシと呼び留めるものがある。