い用なんですけれども、進んで引受けたのです。一つは彼女から遠のく為です」
「ふうん」野波は眉をひそめて、青年の不思議な様子をジロ〳〵見ながら、
「で、とく子がその君の恋人そつくりだと云うんだね」
「えゝ、そうなんです」靑年は極り悪そうに、
「私は夢中で通い出したのです。所が、三日目に彼女は見えなくなりました。それから一週間私は毎夜無駄にあそこへ行きます。彼女は少しも姿を見せないのです」
「アッハッハッ、随分辛抱強いね、君は」野波は笑い出した。
「どうして君はあの女の家を訪ねて行かないのだね」
「そんな事は私にはとても出来ません、とても恥か〔ママ〕しくつて駄目です。第一彼女に愛想を尽かされて終います」
「それは君余り臆病と云うものだ」野波は真面目な顔に戾つて、
「君のその美貌と燃えるような青春を以つてして、何者も恐れ憚る所はないじやないか。毎晩々々あんな喧騒な場所でたつた一人で悄然として、来もしない女を待つ必要がどこにある。それも人妻とか良家の処女とか云うなら格別、高が女給じやないか」
「私は良家の処女と女給とを区別したくはありません。それに私には彼女は良家の処女としか思えません」
「あの女が良家の処女だつて」野波は危く吹き出そうとしたが、あわてゝ踏み堪えて、
「そうかも知れないさ。然し、そうであつた所が、君は遠慮する事はいらない。彼女の家を探し出して訪問するさ」
「そんな事をして好いでしようか」
「好いも悪いもないじやないか。君の愛する女なら、どん〳〵訪問して交際を求めるのが当前じやないか。君はその権利があるのだぜ。それは君のような青年の特権じやないか。君は未だ君自身の力を知らないのだ。勇気を出し給え。君は君の欲するあらゆる女に、唇を要求して見給え。君はきつと君自身の力に驚くよ。先ず手初めにとく子の所へ行つて見給え」
「私はそんな不道徳な事は出来ません」
「不道徳?」野波はあきれたと云う風に、
「そう〳〵、道徳と云う言葉が昔あつたね。それを君は真面目に考えるのかい。道徳と云うものはね、老人が青春を嫉妬する余り、青年の自由を束縛する為に拵えたものだよ。王侯、貴