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 当時の習慣によると、この財界並に政界にママ巨頭である老侯に賞讃された品は、何品によらず彼に献上しなけれはならなかった。そうした事が老侯の意を迎えるのに最も有効だったので、老侯を招待した実業家は何品かが老侯の眼に触れる事をねがい、老侯の賞讃を博するような品があると、大いに喜んだものであった。

 で、松坂はニウルンベルクの名画を老侯に献じなければならなかった。折角掘出して、虎の子のように秘蔵していたものを、ムザムザ人手に渡すのは甚だ惜しかったけれども、相手が老侯爵であるし、又老侯爵によってああまで激賞せられた事も、松坂に取っては嬉しかった事なので、彼は卑しい利己的な政策を離れて、むしろ喜んで老侯に献上を申出たのだった。老侯は無論機嫌よく彼の申出を受け入れた。

 ところで、このニウルンベルクの名画がこのまま無事に老侯爵の手に納まれば、この物語もこれ以上に発展をせず、終結を告げたかも知れないが、ここで一つの変事が起ったので、むしろこれを発端として、事件は意外な方面に展開したのだった。

 と云うのは、老侯を招待した日の翌日、ニウルンベルクの名画を侯の邸に届けようとすると、驚いた事には、一夜のうちに名画は消失してしまって、影も形もなくなっていたのだった。画を納めた広間の戸締りはそのままちゃんと鍵が掛っていたのみならず、他にあった二三の画は無事で、ただニウルンベルクの名画だけが紛失したと云う不思議極まる事だった。

 松坂邸は上を下への大騒ぎになった。鶴輔はニウルンベルクの名画が紛失したと聞くと、彼の愛蔵あたわなかったものであり、且つ老侯に献上すべく約束した品であるので、非常に驚いて、直ちに邸内をくまなく探させると共に警察署に捜索を依頼した上、著名な私立探偵局二三にも特に調査を命じた。

 今まで書く機会がなかったが、ニウルンベルクの名画は十号大のもので、それに幅の広い頑丈な縁がついていたから、畳一枚の半分のおおきさは優にあった。既に述べた通り、画は洋館の広間の一室に置いてあって、厳重に戸締りがしてあったし、邸の周囲には高い塀が巡らしてあったから、これだけの大きさのものを易々と運び出す事は到底出来る事ではなかった。それに、広間は元より、他にもこれと云って戸締りの破壊された箇所もなかったので、結局内部のものの所為か、又は内部に策応しているものがあると云う見込だった。一方では額縁を取り壊して中の画だけ盗み出したのではないかと云う考えで、邸内の捜索が行われたが、さしも広い邸内に縁らしい切端一つ落ちていなかった。

 ついでに当時松坂家にいた人々を挙げると、先ず当主の鶴輔、それから先代以来忠実に勤めている頑固一徹な老執事粕谷かすや繁作しげさく、そのせがれ繁松しげまつ、園丁の米田よねだ虎吉、その他に書生二人、女中五人で、執事の伜の繁松と云うのは鶴輔より二つ三つ年下で、先年大学を卒業したのであるが、繁作が女房に死なれてからはずっと松坂家に住込んでいたので、繁松も父と共に邸内に起居して、学校卒業後も鶴輔の居ない間の留守番かたがた、父を助けて家事を見ているのだった。園丁の米田は庭内の一隅に建てられた小さい家に起伏おきふしをしていた。

 これらの人々は無論厳重に調べられたが、少しも有力な手掛りも見出されず、名画はまるで空気中にでも発散したように、消え失せてしまったのだった。

 こうして二三日うやむやのうちに過していると、奇怪な噂が立ち初ママめた。それは松坂が名画を一旦老侯に贈呈する約束はしたものの、急に惜しくなって、彼自身の手でどこかに隠して、盗まれたように云い触らしたのだと云うのだった。部屋の戸締とじまりもそのままに名画が消失したと云うような事情から、