Page:KōgaSabrō-The Crime in Green-Kokusho-1994.djvu/4

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 一万尺近いいくつかの峯を包含して、雄々しく聳えている八ケ嶽は八方にそのなだらかな裾野を引いていますので、どの麓からでも登山路はありますが、私の選んだのは最も人の登らない路の一つで、しかも或る目的のために途中から登山路ではない傍路わきみちに這入りましたから、山番や樵夫きこりにさえ会いません。折からの薄曇りの空合そらあいは正午と云うのに夕暮を思わせるような陰鬱さです。深山の真昼の静けさ、只一人歩いて行く私には、山の霊気が私の魂に何事かを囁きかけるように思われました。

 私は人に会わないと云う事を覚悟しながらも、風のためか、それとも野獣でも往来するのか、時々草叢がカサコソと音がする度に、もしや人かとハッと胸をどよめかすのでした。

 と云うのは私が必ずしも人を恐れるのではないのです。もしこんな所で私の姿を見る人があったら、その人はどんなに驚き恐れるだろうと云う事を心配したのでした。

 どんな深山で出合ママっても、その人が樵夫きこりか山番か、とにかく山の人らしい風をしているなら、又は登山服で身を固めて、リゥママックサックを凛々りりしく背負っていたら、誰も驚きはしないでしょう。しかし、滅多に人の往来ゆききしない山奥で、よれよれの浴衣ゆかたを一枚着て、顔色蒼ざめ、髭をしょぼしょぼ生やした痩せこけた青年に出会ったら、誰でもきっと気味の悪い思いをする事でしょう。今山又山の路らしい路もない所を歩いている私の姿こそ、まさにそれなのです。

 Fホテルの人達も私がこうして山の中に分け入ったという事は少しも知らないのです。いつまで経っても私が帰らないので、怪しみながら私の残して置いた古ぼけたバスケットを開けて見て、中に古い新聞の他何物も見出さなかった時に、旅館ホテルの人達はどんなに驚くでしょう。彼等は私が病気療養のためにこの高原地方に来て、朝食後ホンの近所へ散歩に出た事と信じているのです。

 あの親切な旅館の人達を欺いた事は、深く私の良心を咎めます。しかし、過去三年に亙つて、云うべからざる不幸を受けた私、既に自ら死のうと覚悟している私にとっては、そんな事を顧慮している余裕はありませんでした。

 路は迫って来た山に突当って急に険しくなりました。ようやく足をかけるだけの幅の路は九十九つぢら折になって、山腹を這い廻って行きます。私は崩れ落ちる砂と共に滑り出しそうな足を踏みしめながら、喘ぎ喘ぎ登って行きました。

 二三町ほどこうした険しい坂を登り切りますと、路は又元の緩やかな上り路となりました。私の弱った肺と心臓はもうこれ以上の前進を許さないようでした。しかし、私はただ一眼ひとめ目的のものを見て死にたいのです。ただ一眼! 何の理由もないのです。又果して目的のものがそこにあるやら、それさえも確かではないのです。それだのに、私は三年間の獄中生活にただそれのみを思い続けていました。私は憑かれたのです。きっと何者かに憑かれ、呪われているのです。私は何者かの怨霊のために、こんな深山におびき寄せられて、垂死たれじにをするのです。私はそれを信じて疑いません。しかも、私は見ママす見す誘き寄せられる事を知りながら、こんな所に来る事を拒む事が出来ないのです。この山中で死ぬ事を拒む事が出来なかったのです。

 路は大きく曲って山蔭のジメジメとした小暗い所になりましたが、行手の谷間に思いがけなくコンモリとした森が黒い頭を出しました。大分長い間そうした繁った森を見なかったので、それが何だか異常なものに見えて、ハッとしましたが、だんだん近づいて行くうちに、一塊りと見えた森の樹が一本一本分れて見えて来て、その間にふと屋根らしい恰好のものがチラリと眼に這入りました。

 私はドキンとして立止りました。長い間の風雨にさらされてひさしは朽ちのきは傾きペンキは大分剝げ落ちていましたが、確かにその昔緑色だった事を示していました。