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識󠄂現象としての「いき」の意味を民族的具󠄄體において解釋的に把握し、然る後その會得に基いて自然形式および藝術󠄃形式に現はれたる客觀的表現を妥󠄃當に理解することが出來るのである。一言にして云へば、「いき」の硏究は民族的存在の解釋學としてのみ成立し得るのである。

 民族的存在の解釋としての「いき」の硏究は、「いき」の民族的特殊性を明かにするに當つて、たまたま西洋藝術󠄃の形式のうちにも「いき」が存在するといふやうな發見によつて惑はされてはならぬ。客觀的表現が「いき」そのものの複雜なる色彩󠄃を必ずしも完全󠄃に表はし得ないとすれば、「いき」の藝術󠄃形式と同一のものをたとへ西洋の藝術󠄃中に見出す場合があつたとしても、それ