Page:Iki-no-Kozo.djvu/156

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を直ちに體驗としての「いき」の客觀的表現と看做し、西洋文󠄃化󠄃のうちに「いき」の存在を推定することは出來ない。またその藝術󠄃形式によつて我々が事實上「いき」を感じ得る場合が假りにあつたとしても、それは旣󠄁に民族的色彩󠄃を帶びた我々の民族的主觀が豫想されてゐる。その形式そのものが果して「いき」の客觀化󠄃であるか否かは全󠄃くの別問題である。問題は畢竟、意識󠄂現象としての「いき」が西洋文󠄃化󠄃のうちに存在するか否かに歸着する。然らば意識󠄂現象としての「いき」を西洋文󠄃化󠄃のうちに見出すことが出來るであらうか。西洋文󠄃化󠄃の構󠄃成契機を商量するときに、この問は否定的の答を期待するより外はない。また事實として、たとへばダンデイズムと呼ばるる意味は、その具󠄄體的なる意識󠄂