ク獨立運動ニ關シテモ墺國ノ絆ヲ脫シ反ツテ伊國ノソレニ陷ラサランコトヲ注意セリココニ於テ此ノ點ニ注目セル伊國政府ハCaporettoノ敗戰後半官的ニ是等「ユーゴー・スラヴ」人ト交渉ヲ開キ二民族親善關係增進ノ爲總テノ領土的紛爭ニ關シテハ其ノ重大利益ヲ各々害セサル範圍ニ於テ之ヲ民族主義ニヨリ解決スヘキコトヲ約シタリ斯クシテViksovitch大尉、Zagreb, Grubitch少佐等ノ活躍トナリ墺洪軍中ノ「ユーゴー・スラヴ」分子ニシテ進ンテ伊軍ニ投降スルモノ多カリシカ伊ノ巴里ニ於ケル態度ハ全ク之レヲ裏切リタルモノナリ
抑モ「アドリアチツク」海︀ノ自由ハ巴爾幹諸國ノ獨立、民族自決主義問題ニ滿足ナル解決ヲ與フルモノナルカ之レカ爲メニハ沿岸諸民族殊ニ伊ト「ユーゴー・スラヴ」ト平和的協力ヲ必要トス然ルニ右ハ前出セル處ノ如ク頗ル困難ナル狀態ニアルナリ伊太利ハ常ニ巴爾幹進出ト地中海︀上ノ覇權ヲ希フテ止マス例ヘハ「ソンニノ」氏ハ千九百十五年四月八日卽チ倫敦協定ニ先ツ僅カニ二週日墺ニTrentinノ割壞トTsonzo方面ノ國境改定ヲ求メタリ然ルニ此ノ野心ヲ察知セル「ユーゴー・スラヴ」代表者︀ハ同月中羅馬ニ來リテ新聞記者︀、議員等ト竟見ノ交換ヲ爲シ更ニ當路者︀ト交涉セントシタリシカ伊國政府ハ之ヲ避ケテ其事ナラサリキ之レ伊カ平和會議ノ席上ニ於テ好キ分ケ前ニ接センカ爲メニ外ナラス而シテ伊カ「アドリアチツク」海︀ノ支配卽チ其東海︀岸要求ノ理由トシテ擧クル處ハ大體次ノ如シ卽チ(一)伊カ同地方ヲ領シタリシ羅馬、「ヴエニス」ノ後繼者︀タルコト(二)現在「トリエスト」ヲ除キテハ同地方ニ「ユーゴー・スラヴ」住民ノ多數ヲ占ムルコトヲ認ムルモ彼等ハ單ニ新シキ移住民ニ過キサルコト(三)戰略上ノ理由トシテ「ユーゴー・スラヴ」側ヨリノ挑戰ニ備フルコト(四)該地方ヲ占領シテ獨墺ノ侵入ニ對セントスルコト是ナリ然レトモ史上ノ詮索ハ兎モ角「ユーゴー・スラヴ」人カ七世紀ノ昔ヨリ同地方ニ定住セルハ歷史ノ示ス處ニシテ且ツ特ニ注意スヘキハ伊太利人カ爾後增加セルニ對シ「ユーゴー・スラヴ」人ノ却テ減少セルコト之ナリ伊太利ノ一統計ニ依レハ千七百三十五年「トリエスト」ニ三千八百六十五人ノ伊人(五割二分)ト三千三百八十五人(四割八分)ノ「ユーゴー・スラヴ」人トアリシニ千九百十二年ニハ十一萬八千九百十九人ノ伊人(六割七分)ト五萬九千三百十九人ノ「ユーゴー・スラヴ」人(三割三分、獨人ハ之ヲ除ク)トアリキ「イストリア」ニ於テモ亦同シ又伊太利カ戰略上ノ理由ヨリシテ多數異民族ノ聲ヲ無視スルハ暴論ト云フヘク海︀軍カ殆ント皆無ニシテ人口僅カニ千四百萬ノ新王國ヲ人口四千萬ノ伊太利カ果シテ然カク恐ルルニ足ルヘキカ疑ハサルヲ得サルナリ
又獨墺ノ盾タラント云フモ先ツ之ヲ防クヘキモノハ彼等ニアラスシテ「ユーゴー・スラヴ」人ニ外ナラス依是觀是伊太利ノ眞意ハ如上ニアラス其ノ帝國主義的方針ニ外ナラサルナリ千九百十五