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Page:History of the Kingdom of Serbs, Croats and Slovenes.djvu/28

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「クロアート」人士間ニ相當力アルモ中央集權的ナル塞比亞人ハ之レヲ喜ハサルモノ多シ然レトモ此ノ案ニシテ實現センカ彼等ハ巴爾幹ノ統一安定ヲ其手中ニ收メ一躍强國ノ班ニ入ルヘク又此ノ倂合ハ「サロニカ」トCavalleノ喪失ヲ惧ルル希臘ノ爲メニモ問題トナラサルヘシ如何トナレハ伊太利ニ備フル所アル「ユーゴー・スラヴ」王國ハ希臘トノ友好關係ヲモ必要トスレハナリ

 ココニ希臘ト「ユーゴー・スラヴ」王國トノ利益一致點ヲ擧クレハ

 (一)兩者︀共ニ「アルバニア」ノ分割ヲ欲スルコト並ニ

 (二)兩者︀共ニ伊太利人ノValona安住ヲ防クヲ要スルコトニアリ

 然レトモ「アルバニア」自身ハ勿論塞領タルコトモ伊希領タルコトモ欲セス且ツ英佛ハ其獨立ヲ欲セルカ故ニ第一點ハ問題トナラサルヘシ只王國カ希臘及「スラヴ」族ヲ惧ルル英ニ扶ケラレタル伊太利共ニ「アドリヤチツク」海︀ニ對峙セン時勃牙利トノ接近ハ實現スルニ至ルヘシ

 王國ト佛國トノ交情ハ大戰前ヨリ頗ル厚キモノアリ塞比亞人ニシテ佛ニ遊學スルモノ頗ル多クGuerre des Porcsニ際シテハ佛國ハ多大ノ同情ヲ小王國ニ寄セタリ

 「ラツパロ」條約ハ「アドリアチツク」問題ヲ解決シタルニ非ス戰期ノ長ヒキシ理由トシテ千九百十四年四月二十六日ノ倫敦協定ノ與フル所ヨリ以上ヲ要求セル伊ハ講和會議ニテ其容ルル所トナラス「チツトニー」ノ如キハ千九百十九年七月七日ノ最高會議ニ「聯合國ハ大戰後ニ於テ大國ヲ討タントセリソハ伊太利ト獨逸ト是也」ト痛憤シ或ハ伊ノ四圍ハ皆之敵也ト叫ビ「オルランド」ト「ソンニー」ハ世界的反伊團結ニ際會セリト言ヒ又伊ハ不正當ニ苦メリト歎シテ總テノ問題、殊ニ對「ユーゴー・スラヴ」問題ハ大ナル惡化ヲ見其ノ反感熾烈ナルモノアリタリ墺洪國ハ「國」ナリシ「國民」ニアラス從而彼ト必スシモ利害一致セサリシ伊太利モ其主張如何ニ依リテハ之ト手ヲ携ヘテ行クコト必スシモ困難ナラサリシカ其後ニ生セル王國ハ國民的國家ニシテ其ノ肉ヲ殺カントスレハ彼ハ悲鳴ヲ擧クヘク又決死的ノ抵抗ヲナスヘシ殊ニ伊太利人ニ取リテハ大戰中「ハプスブルグ」旗下ニ於テ彼等ニ抵抗セシ「クロアート」人ヲ一旦彼等カ塞比亞ニ倂合セラルルヤ之ヲ同盟者︀トシテ待遇セサルヘカラサルハ其難シトスル處ナリ又伊太利ニ於テハ新王國カ伊太利ヲ目シテ其主タル敵トナシ此ノ敵愾心ニ依リテ三種族間ノ壞裂ヲ防キ其團結協同ニ資セリトノ念深ク其腦裡ニ刻セラレタリ而シテ又他方倫敦「ユーゴー・スラヴ」委員會ハ千九百十五年五月十五日既ニ宣言ヲ出シ「如何ナル犠牲ヲ拂フモ「アドリアチツク」岸ヲ救ハサルヘカラス」ト叫ヒタリシカ以上ニ依リテ伊ト「ユーゴー・スラヴ」トノ反噬カ如何ニ盛ナルヤヲ察スルニ難カラサルナリ大戰中墺軍中ノ「ユーゴー・スラヴ」分子ハ露國革命後倫敦密約カ公表セラルルヤ伊ヲ怨ムコト甚シ