君が上なり。成否善悪はお心一つ。今日賓客の一人彼れ有力の貴顕、我が為金穴たらんと言ふ。心はと問へば、苦るしきはこの処、君の噂をいかに聞きしか、一向妹と思ひ込みて、達ての処望つらからずや。君を他人にゆるして我れ、国家の為と断念られず。よし我れ欲を離なるゝとも、この事何として我が口より言はるべき」と、憂しや恋人断腸のけしき。
可憐の小女魂を奪はれ骨を消されて、責を我が身の上に負へば、「操を破つて操をたてんか、人知らぬ罪わが心の内にあり。さりとて我れ故君が名まで、世に滅ろぶるを他処に見んこと、恩を仇なる畜類の処為。あれも愁らしこれも憂し、何とせん」とんばかりの胸、智慮分別かげきえて、取る処は只死の一つ。「影あり形のある世なればぞ、障り多く妨げ多し。生れぬ昔しの空無量、我れお蝶という身がなくば、何方へ義理なく憚りなく、この恋円満にあるべき筈。よしこれも天命なり、病ひに死ぬも恋に死ぬも、命は一つよ二た度は行かぬ道。天地にも恥づる処あらず、神仏もとがめ給はじ。兄さまも免るし給へよ、我れも悔む処なし」と、決心するどく未練なく、憐れお蝶潔白無双の身、濁りに染まじ乱れじの行ひ、寐る夜の夢のしばしも忘れず、富貴に眼をとぢ貧賤に心をみがきて、今歳十八年くもりなき美玉、打ちくだく大魔王は恋といふ胸の一物。形を辰雄に仮り声を篠原にかりて、或る時は誘ふ春風花ひらく園、ある時は指さす秋雲月くらき天、喜憂を包みし袂のさき、引きて伴ふ果ては何処ぞ。東西南北かげもなく形もなく、愛らしかりし双頰の靨いづくに行きし、なつかしかりし遠山の眉いづくに行きし、双星の眼破蕾の口、又耀やかず又開らかず、黒漆の髪雪白の肌、あれもなしこれもなし。寒風ふきしきる夜半の月に、追へども見えず呼べども答へず、形見は止むる一封の文に、残す手跡のうるはしきも涙。
第十回
どつかと座す花瓶の前、あふれ出る熱涙はらひもあへず、にらみつむる眼光火と散つて、取りしむる腕、「くだけよこの骨、寧ろ生れながらに指まがり筋つまりてあらば、斯道にと志ざすこともなく、入立たぬ昔しに何をか願はん。生中陶画の粋と呼ばれし、先師の画工場に一と称へられて、我れは売らねど自からは人も知る名、貧ゆゑうづもるゝ事口惜しの念、我れ潔白の心に沸きて、願ふまじき名誉ねがひしは何故、たのむまじき人頼みしは何故、喰ふまじき不義の食この口に食みしは何故、免るすまじきお蝶、不義の人に免るせしは何故。汝れ汝れこの腕この芸、心をまどはし目を眩まして、見えず悟らず今月今夜、お蝶不幸の家出は誰が業。磨きし多年の筆故に、最愛の妹ころさするか、ねりし経営惨憺の苦は、汚濁を我が身に染みこませしか、冷笑し辰雄、潮けりし辰雄、声は彼れよ罪は汝よ。交りを断つて悪声を出ださぬ、我れ君子の道は知らねど、受けし恵みの泰山蒼海、無念骨髄に徹れど恩は恩なり。彼れ奸悪の秘事この耳にして、まこと聞き捨てにすべきならず、世の為人の為正義の為、揮ふべき拳こゝにあり、秘蔵の短剣ひらめかして、あの胸もとを貫くも容易。さりとは無念やこの品物、この恩この恵み身をしばりて、向くべき刃なく揮ふべき拳なし。思へば恨らみは我れにあり、腕にあり芸にありこの花瓶にあり。憎くし口惜し仇め敵め大悪魔め、汝れを砕いて辰雄も刺さん。汝