Page:HiguchiIchiyō-Umore gi-Shōgakukan-1996.djvu/18

提供:Wikisource
このページは検証済みです

と、立帰つて着重ぬるえんの先、えりに手を添へて折りながら、

兄様あにさま大層たいそうひげへたり。新年といふに見苦るしや」

と、横顔つくながめられて、

なんの、るではあり知れる事か。明るきところ明日あすりて給はれ。づは品物も出来上がりて、小成せうせいに安んずるではなけれど、祝ひてもよき事なり。四五にちうちに辰雄どの誘ひ出して、三人連れに何処どこぞへ行かん、その約束よひして来る心、おそくはならねどかねの物、うちにあるだけ不用心なり、かどの戸さして待ち給へ。さりとは胸に雲もなし、嗚呼あゝ月もよし」

と立上がる兄。その手にすがつてかどまで送くれば、地上に落つる影二つ、見る見る一つは遠くなるを、見送つて立つ影うらかなしく、夜風のきばのえのきさみし。

 昔しは他処よそにみし表札、やがてはおとゝかどくゞる籟三、頼む、どうれの玄関向きうるさく、辰雄の居間はかねて知る、庭口の戸を押せば明きたり。しもにしめりししばの上、踏むに音なきそでがきがくれ、聞こゆる声は高からねど、影は障子に二人ふたり三人みたり、聞きたしなんの相談会と、引き立つる耳にことふたママこと、怪しや夢か意外の事ども。「それしやくたまにつかひて、何某なにがし長官に歎願さへせば、この事必らず成り立つべし。それの殿の証印は柳橋やなぎばしのに握らせ次第、金穴きんけつは例の大尽だいじん気脈きみやくかねて通じおきたり。跡は野となれ、山師ともいへ詐欺さぎとも言へ、愚者に持たせて不用の財、引き上げる事ためなり。思ふも腹筋はらすぢは洋行がへりの才子どの、何の活眼くわつがん、しれた物よ。魔睡ますゐざいは入江のいもと、この間の宴会にじりかく見て取りぬ。あの頑物ぐわんぶつに説きつけがづかしけれど、恩と言ふ獄屋ごくや入り、からげも同じこと。女はして懐中ふところそだちの世間見ず、じやうの深きだけまろめ安し。下ろす元手の細工は粒々りう。籟三といふやつおもひのほかつかひ道むきなれど、飼つて置かばなににかなるべし。くすのきどのゝ泣き男、人間に不用もなき物、ひろく愛するこれもじんか」と不敵のことば。声は辰雄か、「おのれ」とばかり、奮然ふんぜん立ち上がつてさらする腕の無念さ。内には何時いつか話し絶えて、玉笛ぎよくてきの声喨喨りやうりやうと聞え出でぬ。


第九回


 この人の一せうに無限の喜こびを知り、この人の一るゐ万斛ばんこくの憂ひをみ、形より濃き影の如く、きよに心はしたがふその人、玉をのべし容顔ようがん憂ひを含んで、しみじみとの物語り。「なんの契りの君と我れ、宿すくあやしく忘れがたく、国家のために尽くす心、半分は君に取られて、人に言はれぬ物をも思ふ身、はかなしやお心も知らず、てんに妻は又なしと定めて、なんの子爵の娘、振りむくどころか、にべもなく断りしがありの一けつまことを言はゞ我がしよわるかりし。その子爵殿ししやくどの今までの一にて、支出のきんに事も欠かず、事業はこびかけし今日けふになりて、にはかに破約の申込み。このみちたえて又ことらず、恨らみをんで我れこのまゝに退しりぞかんか、残すそしりもあざけりも、君故きみゆゑと知れば惜しからねど、なにとなるべき世の中にや、国家の末を思ひいたれば、残懐ざんくわい山のごとくこの胸やぶるゝばかり、この事れに語らるべき。隔てぬ仲の君にさへ、言はれぬはかゝる訳。ほかにとる道なきでもなけれど、それいよ心苦るしく」と、言ひはてぬことばなほもどかしく、「この真情まごゝろまだ見えずや」と打うらめば、「さりとはその真情まごゝろ、見えて悲しきはこと