Page:HiguchiIchiyō-Umore gi-Shōgakukan-1996.djvu/10

提供:Wikisource
このページは検証済みです

あやしや何者、とあきれて立つ、足もとに身を縮めて、

「お見忘れか、たゞ人外にんぐわいわたくし、おことばも下されまじとか。正路しやうろ潔白の君に対して、合はすべき面貌おもてもなく、言ふ詞出処でどころもなき失策、後悔しぬきし改心の今日けふ、我が田へ水の弁解いひわけではなし、懺悔ざんげに滅ぼしたき罪のあらまし、聞いて給はる人ほかになき身。あひのよしみ昔なじみ、君を見かけてのお頼み」

と、かしらも上げずあやまてい領足えりあしごとに耳うらに二つなら黒子ほくろ、「それなり、姿こそ変りたれやつ新次しんじめ。先師がこと寵愛ちようあいにて、行行ゆくゆくは養子にもと骨折られしを、生地きぢ注文にと多分の金ひきして、そのまゝのゆくしれず、師の臨終にもあり合さぬにんにん今頃いまごろ此処こゝらを彷徨うろつくこと憎くし、なんの相弟子、失礼至極」と、生来せいらい疳癖かんぺきじりに現はれて、言ふことよくは耳にも入れず、

「聞きたくなし、お黙りなされ。相弟子ならば兄弟分、言ふ事あり、とがむる事あり、責むる事あり。さりながらお前様と我れ、なんでもなし、他人も他人、見ず知らず。いり籟三らいざう潔白をたつとぶ身の、友とも仰せらるゝな、中々の耳ざはりなり。其処そこ退きて給はれ。露をさながら志しのけの花、しをるゝも口惜くちをしければ」

と、ことばずくなに行き過ぎるたもと、あわたゞしく先つとひかへて、

御尤ごもつともながら恨めしきおことば。責め給へ、とがめ給へ。罪と知つて苦るしき身の上、折檻せつかんしもとにもはゞ、かへつて身の本懐なるを、捨てゝ顧見かへりみぬ他人向きの仰せ。昔しの入江様、今日けふの入江様、お人替りしか、お心二つか、われ今までの目違めちがひいか。君を先師の形見とみて、改心のじつも謝罪のじやうも、君に寄つて現はしたき願ひ、さりとは画餅ぐわべいのおことばかな」

と、なかばいはさずふりかへる籟三、

「だまれ」

と声欝憂うついうの気のりたる余り、物あらば当らん破裂の勢ひ、くちびるぶるふるへて生来のとつべんいよとつに、

おのれ新次、人非人、恩しらず義理知らず道しらず。おのれが罪の身を責むるは知らず、我れをなんするか、我れを批難するか。我れ籟三昔しも今も、正義を立て公道を踏んで、一歩のあやまち覚えなき身。どこの何処いづくなんの欠点、言ひ聞かん言ひ聞かん」

と、詰め寄る眼尻まなじりきりと釣つて、

おのれ不忠不義のやつも、先師寵愛ちようあいの余りには、世にその罪を包まれて、知る者は師と我ばかり。我れたび言はじと定めて十年近く、この口ひらかねばこそおのれ安穏に、月日つきひの光り拝むは庇護かげ。頼まれずとも折濫せつかんしもと此処こゝにあり、墓前へ手向たむけん志しの、この花で打つに不思議もなし。うつは籟三、精神は先師、くちしくは身にしみよ骨にしみよ」

と続け打ち、手に持つ菊花きくくわなげつけて、白眼にらみつむるの内に感じきたれる新次がてい、昔しながらのがん今一層のひんを備へて、あはれ好男子じろぎもせず、まぶたにあふるゝ後悔の涙、眉宇びうに満つ漸愧ざんきの状、「このひと先師の愛せし人、我れに謝罪と思ひ込みし人、憎くむが本義か、捨つるが道か」とばかり迷つて判断の胸うやむやになる時、静かにかしらを上げて言ひいづる一通り、「聞けば誤りたり、我れ短慮軽忽けいこつ処為しよゐ。この人のつみ罪ならず、とるところ岐路きろおちし不幸の身」と、先づあはれみのじやうより聞けば、