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た唯一の……なのだ。重要なのはこの点だ。


 一月二十九日。

 午後四時半、七号室へ入室。

 恐るべき世界なり。悪夢の如し。自殺がふと頭を掠める。周囲を見るに堪へず。

 ドストエフスキー『地下生活者の手記』を読み始む。読書のみが救ひなり。


 一月三十日。

『地下生活者の手記』読了。

 思想乱れて統一せず。


 朝、空の色に不思議な美しさを覚ゆ。太陽が出始めて黄色であつたのだ。

 夜、於泉信夫来る。自殺の話をす。


 一月三十一日。

 光岡良二が見舞ひの品を持つて来て呉れた。

 非常に喋りたくてならなかつた。が、喋りつつ喋つてゐる自分の言葉に不快を覚ゆ。

 夜、東條耿一来る。彼の詩を読む。彼近来の力作なり。気持少しづつ落着き始めたが、落着いた後に来るものは、恐らくは更に深い懐疑と苦悩であらう。『未成年』を読み始める。


 二月一日。

 朝、レコードをS・M子君に返す。彼女は某看護手と二人でゐた。このことに自分は奇妙な不快を覚え、更にさういふことに不快を感じてゐる自分が不快であつた。

 自分は女を愛してはならぬのである。恋をしてはならぬのである。青春の血を空しく時間の中に埋めねばならぬのである。

×

 夜、光岡良二来る。十時近くまで語る。十七歳の時、………………の洗礼を受けた自分は、一切の「権威」といふものを失つてしまひ、そのために心の置場なく揺ぎ続けてゐるのだ。彼は形而上のもの、即ち神を持つてゐる。しかし自分には神はない。人間すらも信じ切れぬ。


 二月二日。

 ラヂオが取りつけられたので終日うるさし。ラヂオは全く愚劣である。本も読めず、考へることも出来ぬ。おまけに今日は「………」と来てゐる。…… (これがまた話にならん俗物である。) が………、……を従へてぞろぞろとやつて来る。……が一人々々……………る。自分の番の時は実にたまらなく不快であつた。こんなことは書く価値なし。

 夕方、光岡良二来る。彼は私の床の中にもぐり込んで語る。ベッドが狭いのでひどく窮屈であつた。

 夜、東條耿一、於泉信夫、H子、T子来る。女たちは先に帰り、後、うどんをうでて喰ふ。於泉に包帯を巻かせる。何といふ不様。彼は何をやらせても下手くそであ る。みんな帰り、ひとりになると急に気持が暗くなる。Mの姿など浮び淋しくてならぬ。よろしいか、お前は女に惚れてはならぬ。


 二月三日。

 昨夜眠れなかつたのですつかり今朝は寝過してしまひ、朝食は食ひはぐれてしまつた。痛みは殆ど止つたので、もう病室にゐるのが嫌になつた。今日は節分であるといふ。

 終日、正岡子規の随筆を読み暮す。

 創元社より手紙。

 昨夜食つたうどんがたたつて、今日は腹工合が悪く、下痢三回。

 明日からはこの病室にゐる連中の人物描写をやるつもりである。


 二月四日。

 私は自分が癩者であることによつて、他人より受ける侮辱や嫌悪は何とも思はない。人に嫌はれるといふことはいやなことであるけれど、それは要するに自分に孤独に堪へる力があればいいのだ。私をして死を思はしめるものは、人より受ける同情である。同情! これほどたまらないものが他にあるだらうか。同情されるとは何か。それは同情されねばならんほど自分が無価値で無意義な存在を証明するものだ。これが俺にはたまらんのだ。

 近頃、なんとなく頭がバカになつてゆくやうな気がする。


 二月五日。

 屈辱! なんといふ屈辱であらう。こんな恥辱をも忍んで自分は生きねばならんのか。この前の……の時とい