見える。苦しんでゐる者など一人もゐない。誰も彼も生活を楽しみ、何の疑ひもなく時間をつぶしてゐる。
散歩に出かけると光岡良二が呼ぶ。顔色が悪いと言ふ。
「上つたらどうだ。」と彼。
「うん。」と僕は不快をかくし切れない。彼の顔までが今日は楽しさに浮き浮きしてゐるやうに見える。彼は机の上に紙を拡げてゐる。
「何やつてるんだ。」
「図書の整理だ。」
上り込んでみたが話もしたくない。ごろりと寝転んでゐると、
「どうしたんだ。」
「苦しいんだ。書けない。」
「書けなきあ、書かなきやいいぢやないか。」と言ふ彼の顔を見ると、もうむつとしてしまふ。
「とらはれるからいけないんだ。」と彼。
「俺に空気のやうになれつて言ふのか。」
文学だけが俺の生活ぢやないか。書くことにとらはれないでどこに生活がある。生活と言つて悪ければ生と言はう。書くことが即ち俺の生なのだ。俺のつきつめた気持が判らんのか、と呶鳴りたくなつて来る。なんにしてもノーマルな頭になれなかつた。奇妙にねぢれて腹立たしい。
昼頃また机に向つたが駄目。たつた五十枚や六十枚の小説で、なんとしたことか!
『文學界』の古いのを出して、中村光夫氏のフロオベルに就いて書いたものを読む。題は覚えてゐない。ぼんやりとこの大作家の生活を思ひ描いてゐると、『山桜』の九月号を持つて来てくれたので、ペラペラとめくつて見る。『文藝』特集号に当選した佳作が二つ載つてゐる。一つは内田君、一つはどこかの療養所の人。が、読む気は起らぬ。K・F君の巻頭言を読んで不快はますますひどくなる。
このやうな雑誌の、こんな小説に豊島先生を煩はせたことを彼等は少しも恥ぢないのか。とりわけK・Fの「療養所文芸も文壇のレベルに達し云々」の言葉は、なんといふ思ひ上りだ。もし真剣に人類といふものを考へ、現在の日本文学といふものを考へるなら、このやうな言葉は断じて吐けぬ筈だ。彼等は苦しんでゐる。それは判る。しかしさういふ苦しみ、癩の苦しみを楽しんで書き、何の疑ひもなく表現してゐる。それでいいのか。もし自己を現代人とし現代の小説を書きたいと欲するなら、その苦しみそのものに対して懐疑せねばならないではないか。癩の苦しみを書くといふことが、どれだけ社会にとつて必要なのか! といふことを考へねばならないではないか。彼等の眼には社会の姿が映らぬのであらうか。その社会から切り離された自己の姿が映らぬのであらうか。
だが、こんなことは俺だけのことだ。彼等はみな楽しくやつてゐる。それでよろしい。ただ俺は誰とも会ひたくない。語りたくない。俺は孤独でもよい。絶えず社会の姿と人類の姿を眼に映してゐたい。俺は成長したいのだ。
十月八日。
もう十幾日もの間、苛々した日ばかりが続いてゐる。どうしても書きたいといふ欲望が湧き出して来ない。内部から盛り上つて来るものがない。日に何度となく机の前に坐つてみては、頭がづきづきと痛み出し、あてもなく菜園のあたりをほつつき歩く。どんよりとした頭。力の失せた体。この頃は坐つてゐるだけでもなんとなく息苦しくなつて来る。よくこれで寝込みもしないで生きてゐられるものだ。恋人が欲しいのだ。もし心から愛する女があれば、自分の生活はもつと良くなるに違ひない。独身は半身なり、と横光氏がいつか言つたつけ。
十月十日。
夜、東條が遊びに来る。そこへFちやんがやつて来て、Mさんがちよつと話したいことがあるさうだから出て欲しい、と言ふ。何用ならんと出て見ると、結婚する気はないかといふのである。さては仲人をしようといふのだな、と思つたが、それでは俺にも結婚をすすめられるやうなところが出来たのに違ひない。なんとなく大人になつたやうな気がしてめでたしめでたし。特筆すべきことなり。
十月十八日。
「癩家族」書き上る。愉快なり。だが駄作。
十月三十日。
九時に起きた。
中村光夫氏から手紙。この前出した手紙の返事である。友人にならうと書いてある。実にいい。新進批評家で最も尊敬してゐるのは氏だけだから。しかし氏はなんとい