時としてはモノマニアじみてさへゐる。病名を宣告された時のあの驚きは、死ぬまで頭の底に沈んでゐるのである。そしてこの病者は、その病名を自由に他人に語れないのみでなく、ひたかくしにかくしてゐなければならなかつたのである。だからかういふ世界へ来て、それを自由に語り、はばかるところなく苦痛を訴へるのは、此の上ない慰めであり心の解放なのである。自分もやはりさうであり、非常に憂鬱な時ですら、病気の話をしてゐると自然と明るい気分になつてゐるのに気づく。
病気の話には定つて自殺の話がつきまとふ。この病院にゐる千二三百の患者のうち、自殺を考へなかつた者が幾人ゐるだらうか。まだ十歳に満たぬ子供ですら死を考へてゐるのである。話は何時の間にか「自殺未遂者の座談会」とでもいつた風になつてしまつた。
「俺アひと晚、まだ宵の口から、夜が明けるまで橋の上で水を見たよ。ぼうつと頭がして、何がなんだかさつぱり判らなんだ。どうしても死ねなんだ。」
と一人が言ふと、
「俺アな、こんな病気になつて生き恥さらすよか、いつそ死んだら、思つて、船の甲板で考へた。そだけど、どうしても足が言ふことをきかないんだ。」
といふ風な調子である。その他にもAは猫いらずを飲んだといふ、Bはカルモチンを飲んだといふ、Cは首を吊り損つたといふのであつた。しかしみな死ねなかつたのである。
「人に殺される時はワケなく死ぬがな、自分で死なうと思ふと、なかなか死ねるもんぢやないなあ。俺も何度もやり損なつたんで、今でも生きてるんだがな。しかし新聞なんか見ても、七割以上、八割くらゐまでは死に損つてるよ。俺、気をつけて見てるが、『△△病院で手当中、一命は取りとめるらしい』つてまあたいていがさうだよ。大分前小松川かしらで、女房と、子供を三人かしら殺した亭主があつたらう。心中のつもりだつたんだが、野郎、女房や子供を殺す時は首尾よく殺せたんだが、いざ今度は自分の番になると、頭を自分でぶつ叩いてみたり、ガスくだを
と私が言ふと、
「運さ、運さ。じゆみやうのあるうちは死ねんのだ。」
と誰かが言つた。そのうち十時の消灯時刻が来たので自分の部屋に帰り横になる。みんなは暗くなつた中でまだ話し合つてゐた。
九月四日。曇天。昨夜物凄い雷雨があつた。
久しく日記を書かなかつたが……。今日は又何か書いてみよう。
改造社から依頼の原稿三十枚が昨夜書き上つたので、今朝検閲に出した。どう考へて見ても検閲は腹立たしい。……………………………を見ると、胸の中が……………………………を覚えた。根は可愛い男なので憎めないのだけれども、………としての彼を見ると………覚える。我々の原稿を検閲することに彼は………………を満足させてゐるのだ。検閲官であることに…を覚えるとは、………………………………の男であらう。頼りなくて怒りも憎みも出来はしない。
それにしても、今朝も交付所の窓口で内部を覗きながら思つたが、この…………をして療養所に……してゐる連中を何とか出来ぬものか。しかし所詮………………………………であるに過ぎぬ彼等だ、ここを離れれば……………であらう。…………しいけれど愛すべき……でもある。
自分はこの頃どんな人間を見ても憎めなくなつて行くやうな気がする。どんな悪人でも、いや、悪人であればあるほど、なんとなくその底に愛すべきユーモラスなものが潜んでゐるのが判るからだ。世の中で一番不快な人間は、それは自分。世の中で一番愛する人間は、それは自分。
九月五日。
川端先生よりお手紙あり。「危機」が『中央公論』に採用されたからとの御通知。
万歳なり。
これに報ゆる道はただひとつ、それは立派な作家たること。
九月六日。
修道僧のやうなこの生活は何時果つるのか! だが、これでよし。ギュスタフ・フロオベルに学ぶべし。
九月十日。
朝、筆を執つてみたが書けない。苛々し、不快なことこの上もない。物をいふのも嫌だ。人々がみんな楽しく