Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/25

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して彼が、

「この間ここで君と語つたらう。今僕はあの時と同じ気持になつてゐるのだ。」

 と言ふ。僕は相槌を打ち、

「僕は今、かういふことを頭の中で考へてゐたのだ。それは、君とこんなに親しくなつていいのか、といふことだつた。」

 それから長い間、友情に関する話をする。彼はTとのことも言つた。僕は思つた。単なる情熱で結ばれた愛は、その情熱の高まつてゐる間だけのものだ。そして情熱的な瞬間には、全体的なものが判らず或る一面だけの共鳴である場合が多い。そしてさういふ瞬間には、その一面だけが大きく見え、相手の凡てが、そして自分の凡てが、その一面だけで構成されてゐるやうに思へるのだ。随つて熱が冷めると、今まで気づかなかつた他の一面が首を出し、ギャップを生ずる。彼とTの場合は正しくさうだ。それは殆ど友情の頂点を示す程の熱であつたらう。けれどそれは、彼の持つ常識的なものが、Tの常識的な道徳の上で、或は正義観 (感) で結合したのだ。随つて日が経つに連れて、東條は自分の中にある、文学的な欲望や、それと共に現はれる常識 (義理とか人情とかいふ) 的なものを軽蔑する反抗精神や文学的な苦悩が頭をもたげることを発見せざるを得なかつたのだ。

 そのうち話は自然に文学の上に行き、そして眼のことに至る。彼の眼はやがて見えなくなるだらう。もう片方は殆ど駄目だといふ。そしてもう一方はホシが飛び始めたといふ。本を読んでも考へてゐる時でも、一度眼のことを考へ出すと、最早居ても立つてもゐられないと言ふ。その癖どうしても自殺することが出来ない。もう二度も失敗してゐる。それが強い先入観となつて、どんなにしても死に切れないやうに出来てゐる自分を感ずるといふ。それなら盲目になつたらどうしたらよいか。宗教家が羨しい。けれど彼に宗教はない。文学、それとはどうしても離れることは出来ない。詩をやつてもそれでは満足されない。散文、散文、これ以外には何もない。けれど盲目になつてどうして書けよう。自分は恐らくは、尻尾をつながれたねずみのやうに、狂つて狂つて狂ひ死ぬだらう。さういふことを考へると、ほんとに気が狂つてしまふやうに思ふのだ。そして狂ひ死ぬ姿を考へ、絶望につき込まれるのだと彼は語る。そのうへ現在書いたものはろくなものが出来ない、と言ふ。

 一体この言葉に僕はどう返事をしたらいいのか。慰めの言葉ほど愛情の薄いものはないのだ。僕はただ息がつまつてしまふ。

 ああ、そして、この彼の苦しみが、やがては、僕にもやつて来るのだ。疑ひもなくやつて来るのだ。ただ時間の問題だけだ。早いか遅いか。僕は芝の上でごろごろと転がり、坐つては頭髪をかきむしつた。どうにもならない、どうにもならない!

 いつの間にか着物までしつとりと濡れて、つめたい。

 家へ帰り、床の中へ這入つてからも、彼のことが頭に泛ぶ。頭が冴え渡つて眠れない。僕は長い間考へる。

 どうしても草津に家を一軒建て、東條と二人で暮さう。Sを彼の妻として、僕が彼の妹を貰つたらどうだらう。けれど彼のシスはもう婚約してゐるかも知れぬ。それなら仕方がない。こういふことを懸命に考へてゐると、もう二時を過ぎたことに気づく。(六日記)


 七月六日。

 夜。東條の所へ行き、泊る。彼と二人でソーメンをうでて食ふ。


 七月七日。

 今日はたなばた様である。終日面白くなし。東條の所へも二度くらゐ行つたらう。夜二人で散歩する。何時もの所を何時ものやうに歩く。変化も刺戟もない。酒が飲みたい。酒々々。


 七月八日。

 何もかもたたきこはしたい激情の一日。


 七月九日。

 東條よ、今、僕は君に対して何とも言ふべき言葉がない。何故なら、どう考へて見ても、僕には、君の苦しみを解決する方法を死以外には見出せないからだ。僕は、唯一人の友、君に向つて、「死ね」といふ以外にない。これは何といふ悲しい言葉だらう。けれど、君を理解すればする程、さう言はざるを得ないのだ。この僕の気持は、あまりに理性的であり、リアリスティックであるかも知れない。けれど、あり来たりの、常識的な言葉で君を慰め得ないのは、僕の宿命だ。また、常識的な言葉で何等よろこびを発見し得ないのは君の宿命だ。たつた一人の、さうだ、この宇宙内のたつた一人の友、その友に向つて「死ね」と言はねばならぬ僕も、死以外に行き場