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Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/22

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ねえ」と光岡君が言ふ。僕は仏頂面をして帰つた。帰つたが、頭の中が混乱し切つてゐて、たうてい寝られさうにもない。もう十時に近いが、家の中にじつとしてゐられない。東條の所へ行くに限る。さうださうだ。夢中になつて駈けるやうにして彼の所へ行く。彼のシスと文ちやんが又来てゐたが、晚いのですぐ帰つた。田ロ君も来てゐたがこれも帰つた。十一時頃までそこで語る。五号病室の竹内といふ人が死に、闇の中を鐘の音が流れるのを聞きつつ帰る。


 七月四日。

 今日は終日部屋に閉ぢこもつて暮す。どうしても英語をやらねばならぬと思ひ始める。語学一つ満足に出来ぬ作家なんてをかしい。さう思ふと居ても立つてもゐられない。幸ひ研究社の講義録があるから始める。これから毎朝一時間づつやること、何にしてもがん張るんだ。死ぬまでがん張り通すことが出来れば、成功してもしなくともそれで満足ではないか。死んだ兄を思ひ出してみろ! 兄は英語は常識語だから必ずやれと幾度自分に教へたことか。そして兄は死の刹那まで知識欲にもえてゐたではないか。がん張れ、がん張れ。

 今日は〔ひる〕一時から映画が来る。日活 all star cast の超特作ださうだ。題は「母の愛」といふ。が、自分は行かなかつた。行けば必ず情なくなつたり腹が立つたり、その果はきつとあの生温い空気に窒息しさうになつてガンガン頭が鳴り出し、〔めまい〕がし始めることは判り切つてゐる。映画は必ず箸にも棒にもかからぬ通俗的なものに定つてゐるのだ。それよか家で寝転んで本でも読んだ方がなんぼましか判らぬ。舎の者みんなが行つてしまふと、自分はふとんを出し、その中で『改造』や『文藝』や『中央公論』などを数冊引き出して拾ひ読みする。武田麟太郎氏の小説「浄穢の観念」を読み、その他大衆小説二三楽しむ。四時頃、腹が減つて来てならぬので一人で飯を食ふ。傲然とあぐらをかいて食ふ。楽しい。あたりには自分の思考を乱すものは誰もゐない。一号室にもゐない。この舎全部我がものだ。といふ風な気になる。こんな時東條が来たらいいのになあ。誰になんの気がねをすることもなく自由に、大声で語り合つたり、飯を食つたり、お茶を飲んだりするのに! 東條よ、今度から来る時には、朝来い。朝の八時から十時までは、たいてい俺一人ぽつちなんだ。みんな仕事に出かけてしまふからね。君はどう思ふか知らぬが、君と二人で語り合ふ時、他に (どんな者でも) 誰かがゐると、もう面白くないのだ。弱い癖に気の敏感な僕は、絶え間なくその誰かが気にかかり、思ふ存分ものが言へないのだ。そしてその誰かが何か一つことでも言ひ出すと、もう自分達の世界をかき乱されてしまふやうな腹立たしさを感ずるのだ。それは極端なエゴーかも知れないね。けれど、どうにもならないのだ。僕は僕達の世界の中に閉ぢこもり、そこを荒されることが腹立たしく、同時に、いや、それ故に絶えず荒されはしないかとびくびくしてゐるのだ。これはあまり良い傾向では決してない。けれど、自分の力の微力さがさうさせるのだ。さうしなければ自分の神経を、文学を、守つて行けないのだ。それ程僕等の周囲は雑駁を極めてゐるんだ。それは、実際僕等の必死の戦ひなんだ。君は判つて呉れるだらう。それから僕は今から僕の苦悩が如何なるものであるか、その一端を書かう。けれど何からどう書きまとめたらよいか、自分でも持てあましてゐるのだ。まあ兎に角思ひ出すまま二三書いてみる。(これは後で君にみせることを予想して書いてゐるのだ。けれど決して嘘は書かぬ。)

 先づ第一に僕達の生活に社会性がないといふこと。従つてそこから生れ出る作品に社会性がない。社会は僕達の作品を必要とするだらうか? よし必要とするにしても、どういふ意味に於てであらうか。僕は考へる。先づ、第一に「癩」といふことの特異さが彼等の興味を惹くだらう。それからそこの人間達の苦悶する状態の中に何か人間性の奥底を見ようとするだらう。けれど次にはもう投げ出してしまふだらう。要するに、一口に言へば亡び行く民族 (?) の悲鳴に過ぎないのだ。このダイナミックな進行を続ける社会の中に、こんなちつぽけな、古ぼけた人間性など、何のかかはりがあるのだ。

 次に、僕の現在たより得る思想はマルクシズムをおいて他にない。けれど、この癩病患者の北條がそれを信奉したとてどうなる。いや、この言葉はうそだ。マルクシズムにたより切れない僕を発見するからだ。僕は最早階級線上から落伍した一廃兵に過ぎないのだ。しかも、この若さで、この情熱を有つて、廃兵たらざるを得ないのだ。僕は一体、何に鎚りついたらいいのだ。しかもなほ僕は、この俺が、この北條が可愛いのだ。歴史の進展は個人を抹殺する。その歴史の進展に正しく参加したもののみが価値を有つ。唯物史観はさう教へるのだ。そしてこの俺は、抹殺さるべき人間なのだ。歴史の進展に参加し得ない (積極的に) 一個人なのだ。そんな人間は、死んでし