Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/18

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N君が懸命に針を動かせて、畳を縫つてゐる。大きな桜の木がその向うにあり、水々しい緑葉が垂れて涼しさうである。はるか彼方に煙穴が見え、黒煙がもくもくと湧き出してゐた。空が湿気を含んで青白く見える。

 東條は彼の日記を読んで聞かせた。絶望にまで及ぶ深い苦悶と、その苦悶を理解し得ない周囲に対する反抗が彼らしい情熱で語られてゐた。彼の孤独が痛々しく思はれる。その中で、この気持の判つて呉れるのは北條であり、北條の中に多くの共通点を見出すと書かれてあつた。が、一体自分はどれだけ彼の気持が判るのだらうか?

 自分に彼が判るのは、彼の中に自分を見るからであり、彼の中の北條らしき部分だけしか理解されないのではあるまいか。だがこれ以上は望むことに罪があるのだらう。が自分は思ふ。今までを振り返つて見ても、ほんとに苦しんでゐる人と交はる時にだけ自分は信頼された。例へばF子 (従兄の妻) である。彼女等と同居してゐる時、初めの間彼女は、ルーズな、手に負へないひねくれ者でそのくせ人一倍図々しい――と言つて自分を猿のやうに嫌つた。けれど日が経ち、語り合ふことが多くなり、お互の苦痛を話し合ふやうになるにつれて、彼女は自分を信じ始めた。彼女にとつて、心の悲しみを語り得る者が、その夫にはなく、実に僕だつたといふことが理解されて来た。(これは決して自惚ではない。) 彼女は、僕が自殺に出発した遺書を見ると、唯、わけもなく泣き出してしまつた。そして彼女は、僕が癩であることを識らず、僕の病的な苦悩が理解出来なかつたらしいが、唯真に苦しんでゐる者として、僕の中に共通点を見出したのだらう。

 このことは幸か不幸か判らぬけれども、自分はうれしい。苦しむ人の友となることが出来る自分は、それは一つの幸福であらう。それから、先日僕が分析した看護婦の夢に就いても書かれてゐた。それによると、僕の分析は完全な図星だ。


 六月十五日。

 午前中机の前に坐つて今度書き出したもの (題はまだついてゐない) を八枚まで書く。昼飯後東條の家へ行く。先日依頼してあつたドストエフスキーのデスマスクの画が完成したといふので貰ふためである。彼は、

「これだけは死んでも残るやうに書くよ。」

 と、この前言つただけあつて、なかなか良く出来てゐると自分は思つた。写真を見て画いたものであるが、写真と比較すると、幾分感じが強く、陰影が深い。が、ドストエフスキーだから強い方がぴつたりするやうに思へた。僕が行くと、彼は黙々として、(実際彼はひどく黙々とする男だが) 懸命に手を入れてゐる。暫くして、彼は木炭を置き、

「今君の家へ行かうと思つてゐたんだ。」

 と言ふ。

「さうか、俺はドストエフスキー貰ひに来たんだ。」

 と僕は答へて、二人で僕の家へ来た。カンバス代りにしてゐる水瓶の蓋につけたまま、僕はドストを左手にぶら提げて来た。少々快々である。途中で売店に入り、ドストを入れるべき額縁を一枚註文する。五六日の中には来るだらう。勿論額縁は黒色のものである。黒い机の上に黒縁の額に納まつたドストがゐる、あの深刻な面が僕を上に引き上げようとするだらう、その前で僕は小説を書き、本を読み、思索する――ちよつと胸が脹らんで来るではないか。

 家には誰もゐない。二人で長々と寝そべり、語り合ふ。東條と親しくなつて幾ケ月になるだらうと考へる。この頃になつて彼は僕の心内の苦悩を理解し始めたし、僕もまた彼の苦しみを理解し始めた。

「君、苦しくなつたら僕の所へ来て語らう。」

 と、この前彼に言つたことがある。僕もたいてい苦しくなつたら彼の所へ行くことにしてゐる。やがて僕は立ち上つて、片栗粉に砂糖を入れ、湯をかけて、名前はなんと呼ぶか知らぬが、大変うまさうなものを作つて彼にすすめる。

「ところてんみたいだな。」

 と彼が言ふ。

「さうか、ところてんみたいか。俺は食つたこともないなあ。」

「ふん、これによく似てゐるんだよ。」

 こんな風な話をして三時半まで遊ぶ。

 夕食後風呂に行き、机の前に坐る。先日川端先生に、「間木老人」発表して下さいと手紙を送つたことが気にかかり出す。Uさんに先日入院料の催促を受け、せめてあの作でも幾何かになればと思ひ、お願ひしたのであるが、先生にお任せすると前の手紙に書いて置きながら、今になつてあのやうな手紙を書いた自分が情なく、同時にUさんが憎らしくなり、更に患者対事務員といふやうなことを考へ出して、腹立たしくなる。先生に書いた手紙もう取消しにしようかと思ひ始めるが、又そんなことを書いたら、ますます自分のやり方が悪くなつて行く