Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/17

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く。そこでココアを御馳走になり十分ばかり話す。帰つてから『獄』について種々のことを考へる。今までのプロレタリヤママ作家の誰もが満足な成績を納め得なかつた、マルキストに於ける個人的苦悶と、社会的な「組織」に於ける苦悶とを立派に描きあげてゐることには敬服する。抽象に堕さず、よく具体的に描きこなされたことに心を打たれる。しかしながら、あの作がどうして生々しい現実の一断片として迫つて来ないのだらうか? 何か横の方から眺めてゐるやうな、芝居中の悲劇を見るやうな、白々しい空虚さを感ずるのは僕だけだらうか? だが、これは僕だけのことだらう。今の自分がこのやうな一種特別な境遇におかれてゐるため、無意識の中に自分の神経が、かうした苦悩や惨めさに対して鈍感になつたのかも知れぬ。とりわけ「癩」なぞは、あの作中のレプラ患者のさまなぞ、もう自分には日常的な出来事に過ぎぬ。が、僕の鈍感にのみ、この迫真性の欠如が帰されないとしたならば、それはこの作者の失敗であらう。思想上の苦悩を描くに苦しみ抜いた作者が、それに捉はれ過ぎたため、現実的な肉づけが出来なかつたのだらう。兎も角、かうしたことは誰でも言はれよう。批評的な気持で今の自分は読んではならぬ。味はふこと、より多く感じ取ること、それが大切なのだ。さういふ気持で自分は読んだ。

 昼食後、押入れの中で三時まで眠る。どうしたのか、このごろ、一時頃になると、堪へがたいまでの睡気が襲つて来る。

 夜、ドストエフスキーの『作家の日記』を読む。

 机が出来たため、心が安定を得、そはそはしない。終日机の前に静かに坐つてゐるだけで、自分の胸は脹らんで来る。光岡さんに、勃然として勉強する気分が湧いて来たよ、と言つたら笑つてゐた。又始まつたぞ、と思つてゐるのかも知れぬ。


 六月八日。

 夕方になつて於泉が来る。彼の話によると、『山桜』の創作随筆などの散文を、凡て文学サークルに任せて呉れるやうになりさうだとのことである。

 七時頃になつて二人で散歩に出ると、途中で東條に会ひ、十時近くまで歩く。ひどく体が疲れてゐて、憂鬱でたまらなかつた。(もつと書きたいことがあるが、疲れがひどくて書けぬ)


 六月十日。

 終日部屋に引き籠つてゐたが、『作家の日記』を少し読んだだけである。絶え間なく書きたい欲求に襲はれながら、机に向ふと、どう書いていいのか判らなくなつてしまふ。そして今まで書いた三枚も、この文章で、この方法で、かういう風に書き進めていいのか? と疑ひ始める。するともう一行も次が書けない。さうなると憂鬱でたまらない。それで夕食後S君がモルモット小屋へ食餌を持つて行くので、それと一緒に出かけて行つて気晴しをする。その帰りに風呂に這入つて、つくづく考える。(自分は何も書けないんだ。その癖自分の力以上のものを書かうと気張つてゐる。それがいけないんだ。自分に書ける程度に、こつこつ書けばいいんだ。今は習作だ。何よりも、もつと量を多く書くべきだ。気張るな気張るな) この考へは自分を救つた。帰つて見ると光岡さんが来てゐた。先日持つて行つてゐた『獄』を返しに来てゐたのだ。それから『獄』に就いて九時頃まで語る。そこへ東條君が来たので三人で散歩に出かける。話は自然『獄』のことからマルキシズムの問題となり、更に現在この療養所内に於て我々は如何に生きなければならぬかといふこととなり、我々の敵は、ブルジョワだけではなく、もつともつと別な、更に深い敵があるのだ。といふことや、個人と階級といふことなど語る。その間自分の心を打つた光岡さんの言葉に、かういふのがある。どんなに苦しくなつて、どんな大きな、現在とは全然別なやうになつても、そこにはきつと抜路があると思ふ、そして自分が変つて行くたびにきつとそこには新しい世界があるのだ、といふ風なことであつた。(ここまで書くと、U君が眠れぬのだらう枕の向きを更へた。自分はローソクの光りが洩れては済まぬと思ひ、わざわざ本を高く積んで光りをふせいでゐるのに、ことさらに向きを更へるとは! なんて共同生活は嫌なものなんだらう。どうしてあの野郎はあんなに意地悪なんだらう。貴様なんか一日も早く、くたばつちまへ‼)


 六月十一日。

 朝『作品』六月号の「田園通信」(上林暁) を読む。移り変つて行く農村の姿を描いてゐるのだが、手紙の形になつてゐるためか、時代的な動きといふやうな客観的な真実さよりも、そこにゐる作中の「僕」の「君」に対する告白記のやうである。

 九時頃東條の家へ行く。あの舎では畳の表替へをやつてゐた。孟宗竹の藪を後にして、二人は話す。前の庭で