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 八時頃に於泉と散歩に出る。東條君の所へ行き、彼を引張り出して三人で歩く。夕立雨は止み、空には星が輝いてゐる。清澄な空気はさつきの雨でいよいよ透明になり、何とも言へぬ清々しい夜であつた。暫く歩くともう自分は疲れてしまつた。

「どこかへ腰をおろしたいなあ。」

 と言ふと、

「どこかへしけ込まうか。」

 と東條が言う。勿論女舎だ。

 三人は榛名舎へ行く。みんな寝てゐたのには参つた。けれど彼女等は珍客来とあつて起きた。

 期せずしてK・Fの追憶会といふやうなものになつてしまつた。彼は毎晚ここへ遊びに来たものだつたのだ。

 そのうち九時が鳴つたので帰つた。


 六月四日。

 起床五時半。昨夜ぐつしより寝汗をかいた自分の体は、鉛のやうに重い。けれど起き出して洗顔し、掃除を済ました頃には、どうにか朝らしい清々しい気分を取り戻した。K君が家の前の雑草を取つてゐる。けれど自分は手伝ふ気にはならない。自分としてはあれ等の雑草を、そのままもつと密生させたいのだ。家の周囲が深々とした雑草に埋められたらいいのにと自分は思ふ。さういふことを考へながら、散歩に出る。今日は何時もと方向を更へて汽缶場の方を巡つて来る。垣根の間からちらちら見える官舎を見てゐるうちに、東京のことが心に浮び、もうこの病院にはあきあきしてしまつた自分を見出す。帰らうと思つてきびすをかへすと、急に胸にぐつと嫌悪がさして来た。自分にはこの部屋、共同生活の部屋に帰ることが、嫌でならない。このまま東京へ行つてしまひたい衝動を覚え、たまらなく淋しくなる。酒が飲みたくなつて来る。さういへば昨夜は激しい性慾の夢と、酒の夢とを見たことを思ひ出す。

 部屋が欲しい。自分一人の部屋が。何者にもかき乱されることのない部屋で、静かな、静かな気分になり、小説のことなどを考へたい。(午前六時、散歩から帰つてすぐつける。)


 六月六日。

 ながい間待つてゐた机が、昨日出来た。友人のT・N君が作つて呉れたものだ。出来たばかりの、新しい白木も香ぐはしい。中央からちよつと右によつた所に、黒い節が一つある。小さな、けだものの眼のやうだ。抽斗はまだ出来てゐないけれど、部屋の片隅に据ゑる。勉強しなければならぬと深く心に誓ふ。

 朝掃除を済ませると、先づ机に坐つてみる。亀戸にゐた頃のことを思ひ出す。あの時は足の高い卓子であつた。

 食後島木健作氏の『獄』を取り出し、そのうち「」一篇を読む。よくこなれた立派な筆使ひ、自分など到底及びさうにもない。暗い監獄の中の癩病人と、今の自分の生活を比較してみたり、三・一五で市ヶ谷に這入つてゐた朝鮮人の金さんのことなど想ひ出す。今ああして宗教に摑まれた金さんの、今までの過程に於ける苦悩は深かつたであらう。先日この村に芝居があつたをり、彼と自分は話合つたことがある。

「『個人』これから僕は抜け切ることが出来ません。個人の性格や苦悩や更に個性的な凡てが否定されるやうな思想に、今の僕は満足出来ません。勿論社会そとに居れば、今も尚あの運動に参加してゐるでせう。けれど癩を背負はされた現在の自分には、もう出来ないことです。」

 といふやうな意味のことを言はれた。この言葉も素直な言葉として自分には受け取れた。インテリゲンチャーが、個人と全体とが調和し切れない現実に真にぶつかり、戦ふ時の苦しみ程深いものがあらうか。しかしながら、今の自分には立派な作品を残したいばかりだ。

 八時になるとみんなは仕事に出かけて行き、自分は唯一人で机の前に坐つて物思ひに耽つた。そこへK老人が帰つて来る。もはや自分の神経はかき乱されてしまつた。老人は種々と愚にもつかぬことを話しかけて来る。癪に触つて終ひには返事をしない。すると何かぶつぶつ言ひながら出て行つた。痛切に部屋を持たぬ自分の生活がつらい。部屋、部屋、部屋――。

 昼頃ミシン部に行き、サージの布を買つて来て、机を覆つた。真黒いその上に本を並べ、原稿紙を載せる。黒い布から来る感じが、神経を暗く、だが静かな雰囲気に自分を置く。

 島木氏の『獄』を展げ、「盲目」「苦悶」を読む。

 三時から野球に出かけ所沢の「ことぶき」チームと戦ふ。スコアは3A—1で全生チームの勝。


 六月七日。

 朝、食前に『獄』の中「転落」を読み、食後「医者」を読む。これでこの書は全部読んだのである。妙義の光岡さんが読みたいと言つたので、直ぐ彼の所へ持つて行