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もしこの点がしつかり描かれてゐたなら、ここに我々は近代女性の思想的な苦しみと、本来の人間の肉慾の苦しみを有つ、真にリアリティを有つた人生性を見得るであらう。「散文に於ては、行為の発展は思想の発展であるべきだ」とは哲人アランの説であるが、この言葉をよく小説家は味はなければならないのではあるまいか?!

 なほ、赤木が二人称的に描かれてゐるため、その苦悶を直接描けないことは仕方がないとして (此の場合赤木は最早人生の凡てに徹した平然たる人間にされてゐるが、その影に苦悩の潜んでゐることは疑へない) その苦悩がもつと深く準子に反映しなければなるまい。準子が赤木に恋してゐる限り、赤木からの反映は準子にとつて大きな心の役割を演じるであらう。


 それから自分としては、内田君の作品と共に、看護婦を描いてあるといふことによつて非常な興味があつた。それは自分も看護婦を描きたいと思つて、しかもそれを摑みあぐんでゐるからである。一つの職業を有つものは、その職業者以外には絶対に持ち得ない特殊な何かがあるのではあるまいか。僕が摑みあぐんでゐるといふのは、この特殊な「何か」なのだ。この点東條君も内田君も摑まれてゐないやうな気がした。

 この特殊な「何か」といふのは僕の錯覚かも知れぬが――。


 五月二十五日。

 こんな、ちつぽけな義理や人情に拘泥してゐて自分の大成が望まれるものか! 踏み躪れ! 野球も、印刷所の仕事も止めてしまへ。そして作品生活に這入るんだ。自己の生命の問題に関することのみに頭を使へ。癞者の生命は短いんだ。彼等は腹を立てるだらう。義理も何も考へぬ男と自分を蔑むだらう。だが、それが何だ。それが何だ。自分の仕事はもつと別な所にあるんだ。彼等凡俗がなんと言はうと知つた事か‼

 だが、なんて自分はこんな小さなことにくよくよ考へ込むんだらう。もう二日も考へ込んで憂鬱でたまらぬ。もつと強くなれ! 強く。周囲と戦ふことだけでも、もつともつと強い自己を持たねば駄目だ。生きること、それは戦ひなのだ。


 五月二十九日。

 本月十五日、川端先生より拙作「間木老人」に就いてお手紙を戴き、それ以来、どうやら自分の文学にも明るみがさして来た。自分としては丸切り自信もなにもなかつたのに、先生は立派なものだと賞めて下さつた。そして発表のことまで考へて下さつた。二十二の現在まで、暗く、陰気な、じめじめした世界以外になかつた自分に、初めて太陽の光りがさし、温かい喜びの火が燃え始めた。自分は書かう。断じて書かう。「文学と斬死する」と何時か光岡君に語つたことがある。その時彼は、皮肉な冷憫の眼で僕を見てゐた。だが、自分はその気持から絶対に離れることは出来ない。そのために印刷所はやめてしまつた。だが野球の方はやめられさうにもない。渡辺君のあの顔を見ると、どうしても済まぬ気が先に立つ。


 K・Fは明日実家へ帰る。新しい文学の道を求めて――。彼の眼は片方は義眼だ。病気は重い。それだのに、今まで自分のやつて来た文学 (大衆文学的なもの) の凡てを清算して、新しい出発をするといふ。もう年も二十九にはなるのだらう。つい昨年まで療養所作家と自ら任じ、又人も認めてゐた彼。けれど文学サークルが出来て以来、我々の本格的な歩みは彼を激しい苦悩に陥れ、彼自身の文学が真実のものでなかつたことを悟らしめた。勿論彼をして生活から浮き上つた、大衆小説的興味本意の小説を作らしめたのはこの病院の責任である。彼に正しい一人の指導者をも与へず、指導的な書籍の一冊も与へなかつた病院の責任である。けれど彼は翻然と自らの道を発見し過去の一切を清算して突進しようとしてゐる。彼の前途には苦悩と不安が待つてゐるであらう。だが、それらの凡てが彼を生かしめる素材であるやうに、僕は祈る。


 五月三十日。

 朝印刷所へ行き、M君に会つて仕事をよす由話す。それからS君の所へ行つて、となりのベッドで暫く体を休める。彼も今日は元気がいいやうだ。

 昼からドストエフスキーの「悪霊」を読み始める。これで二度目だ。疲れると藤蔭寮の前のブランコに乗つて頭を休め、又読む。夜になるとぶらりと散歩に出、於泉信夫の所へよる。夕立雨が沛然と降つて来て、鋭い稲妻が光り、轟音が響いた。Y君と於泉と三人で歌のことや散文に就いて語る。勿論常識的な域を出ないもので書くまでもないが、Y君は熱情家である。牧田西男の Penname で短歌を作つてゐる。『武蔵野短歌』では重要な人の一人である。