鶏三は相手の胆を潰さぬやうに気を使ひながら、顔に微笑を泛べて、
「太市。」
と友だちの気持になりながら低い声で呼んでみた。と、太市の肩がぴくッと動いて歌はぴたりととまり、手は穴に入れたまま石のやうになつた。振り返つてみようともしないのである。或は振り返つて教師と顔を見合せる勇気がないのか……と、太市はまた前のやうに一心に穴を掘り唄ひ始めた。鶏三の声に、太市はただ何かの気配を感じてギヨッとしたのであつた。
「何やつてるんだい?」
と言ひながら鶏三は側へ寄つて行つた。すると、太市は殆ど異常ともいふべき驚きやうで、
「太市はなかなか面白い歌知つてるんだね。」
と鶏三は親しさうに笑つてやつたが、太市はやはりぷすんと突立つたまま、おどおどと見上げてゐるのであつた。頭の頂きに鱗のやうに垢がたまり、充血した眼からは
「太市、もう晩になつたから先生と一緒に帰らうよ。」
と、今度は鶏三はかう言つてみたのであるが、ふと家を出る時何時もの習慣で誰か子供にでもやらうと考へて袂に投げ込んで置いたチョコレートを思ひ出すと、彼はそれを取り出して太市に示し、
「さうら、チョコレートだよ。太市はチョコレート嫌ひかい?」
瞬間、太市の眼がきらりと光ると、鶏三の顔と見較べておづおづと手を出しかけたが、何と思つたか急にさッと手を引込めた。そして敵意に満ちた表情になつてじろりと白い眼で見上げたが、また欲しさうにチョコレートに眼を落すのであつた。
「そらあげるよ、また欲しかつたら先生の家へおいで、ね。」
しかし太市はもう鶏三の言葉を聴いてはゐなかつた。じつとその四角な品に眼を注いでゐたが、相手の言葉の終らぬうちにいきなり手を伸ばしてひつたくるやうに摑むと、まるで取つてはならぬものを盗つたかのやうに背中に手をまはして品物を隠した。数秒、様子を窺ふやうに太市は鶏三の顔に眸を注いでゐたが、突然身を
松や栗の間を巧みに潜り抜けて、前のめりに胴を丸くして駈けて行く猿のやうな姿を鶏三は見えなくなるまで見送つた。彼は他の明るい子供たちの方ばかりに眼を向けて、そこに子供の美しさや生命力を感じていい気になつてゐた自分が深く反省されたのだつた。勿論彼とても意識して明るい子供ばかりを見る訳では決してなかつたのであるが、何時とはなしに自然にさうなつてしまひ、なるべく病気の重い児からは顔を
その時の面会もまた異常なものであつた。そしてそれ以来太市の病的な性格が一層ひどくなつたのは明かであつた。それまではたまには子供舎の近くで遊んだり、学園へも出て来て本を開いたりすることもあつたのであるが、それ以来は全くさうしたことがなくなつてしまつた。そして人目につくことを極度に恐れ、顔には怯えたやうな表情が何時でもつきまとふやうになつた。
大人の患者たちがよく太市をからかつて、
「太市の頭は
などと言ふことがあつた。すると太市はいきなりあかんべえをして逃げ出すといふ無邪気な癖を持つてゐたのであるが、それすらもなくなつてしまつた。
その日はしよぼしよぼと梅雨の降つてゐたのを鶏三は覚えてゐる。面会の通知があると鶏三は急いで子供舎へ出かけた。受持の教師である関係上彼は太市を面会室まで連れて行き、その親たちにも一応挨拶をする習はしであつたのである。太市は運よく子供舎の前の葡萄棚の下で、白痴のやうに無表情な貌つきでぼんやりと立つてゐた。葡萄の葉を伝つて落ちる露が頭のてつぺんにぽたぽたと落ちかかるのだが、彼はまるでそれには気もつかないやうであつた。
「太市、面会だよ。」
と鶏三はにこにこしながら言つた。かういふ世界に隔離されてゐる少年たちにとつては、親や兄弟の面会ほど